今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

結婚が重い

この歳になって結婚を頭の端っこに入れるけど、考えれば考えるほど結婚が重い。

 

何が重いって、ものすっごい固い契約が気持ちっていう不安定極まりないものをベースにしてるのが重い。

 

結婚すれば夫婦の財産は実質半分こだし、一生付き合っていくの前提だし、子どもの養育教育と金かかること盛りだくさんなのにあらゆることが法的義務で日本で生きる限り真っ当なままには逃げられない。

おまけに子どもに至ってはぼくに何をしてくれるのか。期待できるのは自己満足と年取った時の介護ぐらいじゃないか。

 

それに比べて、ベースにしているのが全て気持ちだ。恋愛結婚だ、夫婦の絆だと言う。夫婦なんて相手のあらゆることを知ってて当然だから、相手を嫌う材料なんていくらでもある。しかも人間は先入観に影響されるので、嫌いになったらとことん一直線だ。

介護だって気持ちだ。いくら生活が厳しくても無視し続けるなんて簡単だ。夫婦共働きじゃないと生きていけない時代に誰が親のために滅私奉公できるだろうか。

 

今や嫌なことは嫌だ、気持ちこそが重要だという時代だ。実害がなくてもセクハラ発言はダメ、ポリコレだヘイトスピーチだ、相手が嫌だと思ったらそれはマナー違反なのだ。結婚という契約関係ですらそれは成り立つ。

なのに結婚はガチガチの契約だ。気持ちに左右される契約が結婚の他にどこにあるのか。

 

それがいい悪いの話ではない。しかし感覚として結婚はリスキーすぎる。なぜ相手が嫌だと思っただけで、財産を分割され、下手したら子どもすら持っていかれて、でも養育費は払えと、これがリスキーではなくて何というのか。

 

今までは結婚は義務に等しかった。だからみんなリスキーでも結婚した。

でも今は違う。結婚しないという選択肢がある。気持ちなんて不安定なものの上に建てた家に誰が住もうと思うだろうか。その家に住めるのは気持ちが強固であると思っている人だけじゃないか。

思っている、なんて普通なら無責任にもほどがある。でもそれでいいのだ。

 

これで誰が結婚しようと思うだろうか。きっと愛の力は気持ちを強固するのだと、いい歳をした大人のうちでも、そう狂ったように信じ込める人たちが結婚するのだ。

 

ぼくも是非結婚したい。

日本は暴行OKな国らしい

んわけあるかいな。

 

 

この手の記事によくある主語が大きすぎるやつ。

女性店員の胸を触る男性客とか普通に犯罪だけど、法律上の犯罪と日本人の性犯罪に対する見方をごっちゃにして問題が見えなくなってるように感じる。

 

間違っていること

1.暴行は犯罪であること

当然のように犯罪ですね…

広義で実質的な効果がないと言う意味で述べるなら、警察を呼んだ場合の対応で決めるべき。残念ながら国家機関が一切関与していない状態で国全体がそうであるかのように述べるのはNG。

例を出せば、街中で覚せい剤やってる人たちがいたからその国では覚せい剤OKだと結論づけるのと同じ。

 

問題の原因を見誤っていそうなところ

1. 「セクハラは暴行」ではないこと

「見知らぬ女性の胸を触ることはセクハラであり、暴行ではないという意識が日本人の一部にある」という話。たぶん海外の人は「それはセクハラではなく暴行である」って考え。

どこからが暴行かはその国の人が決めるべきで、海外の人に云々言われるところではない。

逆にセクハラと暴行を同列に扱うのは範囲が広すぎるのではないか(全てのセクハラは暴行と同じくらいの重い罪であり同等に罰せられるべきなのか?それを求めているのか?)。

本当の問題は「暴行として扱われるぐらいの強い苦痛を感じる行為を暴行として扱わない人がいること」。

 

2. その主張の正当性をどこに置くのかというところ

まとめ部分に以下のような記述がある。

冗談で済ませちゃいけない問題なんだ、犯罪なんだ、というのは各国からのコメントを読んで初めて気付きました。」

「初めて気づいた」というのは微妙な話で、今まで冗談で済んでいたならそれは冗談ではないかという反論ができてしまう。冗談でする行為を何でも勝手に犯罪にされちゃ困る。

「人には冗談と言われるが、自分は非常に強い苦痛を感じている」から犯罪にすべきなのであり、冗談で済ませられるなら冗談で済ませればいいのでは。

 

まとめ

まず第1に主語が大きい。主語が大きすぎると愚痴にしか見えない。

この話で1番の問題は「犯罪が犯罪として認知されていないこと」であって、「日本では暴行OKである」ことではない。

「日本は遅れている」という印象を皆に伝えたいのならばいい記事であると思う。

北朝鮮の核実験やら何やら

北朝鮮が6回目の核実験をしたそうで、ネットもいつも通り賑わっている。

 

やっぱり出てくるのは、平和うんちゃらな市民団体とそれを批判する"現実を見ろ"とおっしゃる方々である。

 

ぶっちゃけた話、一周回って平和を愛する方々がよく言う「対話重視」しか残された道がないのは、「現実重視」の方々も悟ったほうがいいのではないだろうか。

 

核兵器(+弾道ミサイル)の段階になると、もはや軍事力の増強とは異なる次元であることは明らかだ。なぜならばこのセットは相互確証破壊で仲良く相打ちをするものであるからだ。

通常戦力の増強が軍事衝突において少しでも敵より優位に立つ目的なのに対して、核兵器は相打ちか現状維持かの二択でしか役に立たない。

 

普通は現状維持を選ぶので、残された道は対話のみである。例えば冷戦の時代だって、キューバ危機は結局アメリカとソ連の対話で解決されている。

 

北朝鮮核兵器を持ってしまった今、対話の道しか残されていないのは明らかであり、そして前々から予想されていたことである。それをもう少しでいいから、直視していただきたく思う。

 

というか弾道ミサイル、撃たれた時点でほぼ負け確だしね?

現状北朝鮮が通常戦力で攻め込んでくるというのはあり得ないので、日本の平和は核爆弾搭載弾道ミサイルの発射そのものを防ぐことでしか保たれないのでそこんとこよろしく

理想と現実の区別ができない人に未来はあるか

申し訳ないんですが、近年の日本の自衛隊関連の話で言うなら、南スーダンPKO近辺とか集団的自衛権やらで兵士を戦線に送り込む政府になっている傾向はあると思いますけどね、もっとも昔からあるスローガンではあるのですが。

 

 

さて、最近のTwitterを見ると安全保障過激派とでも言えばいいのか、そんなことを言っていても現実はこうだ、という言説、例えば「違憲であろうが、北朝鮮や中国の脅威は現実のものであるから、集団的自衛権は必要なのだ」という言説。

気持ちはわかるけれども、問題をごっちゃにしているようにしか見えない。安全保障は外交上の問題で、憲法は国内の問題でしかないからだ。

憲法に縛られて現実的な対応ができないのは問題だ、と言うのだが、では現実的な対応をし続けるとどうなるのか。

 

最悪の例としては、国家の根本的なルールを壊せることになる。現実に対応するためには憲法は無視してよいという考え方を根本に置くのだから、当然だ。

あとは一党独裁でも、人権侵害でも、魔女裁判でも何でもすればいい。

 

まぁもう少し「現実的な」話をすれば、何をどこまでやるべきか、やってよいのかが論理的に議論できなくなるだろう。

「現実に対応するためだ」と政府が言いさえすれば何でもできる、なぜならば誰も政府を縛ることができなくなるからだ。

憲法は戦後の長い期間でその解釈が固められてきたはずだが、その解釈は当然憲法の範囲内で考えられている。一箇所が破綻すれば、理論的かつ論理的な手順に従った解釈という数十年間の積み重ねは意味をなさなくなり、全ての新たな解釈はそれが新しいが故に無視することを容易にするだろう。

 

我々がやるべきことは理想と現実の釣り合いを取ることであって、理想を現実のために歪めることではない。なぜならば、少なくとも今の社会システムは理想が現実によって歪められることを仮定していないからだ。

憲法を超えた先にあるのは、非近代的な、あまりよくないとされる社会システムであり、過去の歴史の繰り返しでしかないのではないか。少なくとも、今の我々は過去を繰り返さない、繰り返さないと断言できる論理的な根拠をまだ得てはいないだろう。

奨学金のうんちゃら

こんなんみた

 

いやぁ、そうなんですけど、そうなんですけどね。書いてる人も本文中で「個人の責任に見えるかもしれない」って言ってるんで、まずは書いてる人の意図を読み取るのが先だと思いますね。

 

ここらの問題の本質は、学生っていう立場を利用して現状の返済能力以上の金を貸すって構造にあるわけで、もちろんそれで助かる人も多いとはいえあまりいい制度ではないですね。

当然ながらいい制度ではないので、一定数そこから踏み外してヤバいことになる人も、低確率ではあるけれども、母数が大きいので数で言えばそれなりにいるわけですね。

社会問題を語るときに割合を基準に考えて、何かを切り捨てる方向にいくのはその段階で間違っていて、というかそれって差別の肯定以外の何物でもないですね。

完全ではないけれども差をなるべくなくすような方向、例えば貧富の差は多少あってもしょうがないが、餓死凍死する人を無くそうって方向が最低限のルールですね。

 

 

とすればこんな最悪に不運な事例はできるだけ軽減する方向がいいですね。家族の問題とは言え返済能力を超えた借金が一助にはなっているので、社会問題を考える材料であることには変わりない。

ただ、直接学費無償化とか給付型奨学金の話につなげるのは遠すぎますが、この問題を解決する手段としては決して間違ってないですね。現実的でない解決手段の提示は、現実的な回答を求めている場合にのみ間違っていますが、この記事は解決を第一目標にしてるわけではないので、間違いではない。

しかも最底辺って現状の一番ヤバいところにハマった人たちなので、人並みな対策では救えないことも大アリで、根本対策ぐらいしか残ってないことも多い。

 

現実的でないことは一般に批判の理由にすべきではないし、本文中であえて書いてあることを追認するメリットもないですね。本文から何を考えるか、国語の問題の気分で読むといいと思います。

うんこリプ

Twitter論説委員の方々、何が言いたいのかさっぱりわからないことを言ってRTしまくるので、非常にイライラする。私はクソ人間なので、ネット上でぶっ叩いてイライラを解消したい。

 

 

ここらへんの核兵器禁止条約に日本が批准しない話。

なぜか政府の言うことをそのまま受け取って、批准しない方が核兵器禁止に近いのだ、なんて言い分を支持している。

そんなのは、核の傘に守られている国々がゴネまくるからでしかなく、核の傘に入っていない国からすればゴネてる国の一つにしか見えないだろう。ゴネて言い訳を無理やりくっつける政府の言い分をわざわざ報道する必要はないと思うのだが…

 

 

インドとパキスタンって核兵器バシバシ打ち合えるほど強くないし、隣国で発射から着弾までの猶予がないってなると偶発核戦争のリスクが高まりすぎるし、一般的な平和のための核兵器って構図は成り立たないはずなんだよなぁ…

交渉材料程度にしかならない割にリスクが大きすぎるのでやめてくれ、褒めるのもやめてくれ。見栄の張り合いを正当化しないでくれ。

 

相互確証破壊 - Wikipedia

 

 

震災当時の苦労には頭が下ががるのだが、原発なしで電気が足りるかどうかと震災で石油大輸送が大変だったのは全く関係がないのでクソリプの類…

相手のアカウントもなんか日本語怪しいのでうんこの投げ合いにしかなってないのが救い。

 

そ、そう…

 

 

高須院長って良識あってのあの行動だと初めは思ってたんだけど、国会議員の国会での発言に対する賠償請求とか特攻美化とかでただのヤバい金持ちだって気づいた、気持ち悪い。

隊員の人の話とか成果とかそこらの文献を漁れば、人の感じ方の違いを考慮したとしても美化するには厳しすぎるのは明らか。それを無視するのは危険で建設性マイナスなのでやめてほしい。

 

このやり方ってまずいんじゃないの?ってツイを見かけた。たぶん積極的に損害を与えるように見えるからだろうけど、インフラ系は社会的な責任もあるので止めるのはよくないし、労働者の権利を軽視するわけにもいかんので認めてくれ。ストライキは1か0かにしろとかみんなが不幸になるだけなので…

合理的と平等・差別・人権

航空機に搭乗する際にうんちゃら(書くのめんどいのでリンク)が今アツい。

バニラ・エアが燃えている。しかし、木島さんも燃えている – アゴラ

 

Twitterを見ていると「航空会社に事前に連絡しなかったせいだ、準備ができなかっただけだ」とか、あるいは「この人はもともと障害者支援団体のプロだ、相手の準備ができていないのを分かっていたのだ、これはパフォーマンスだ」とかいう意見が流れてくる。
実際のところは、まず前者ならそもそも設備がなく断られていたらしいので乗客の行動のほうが正解らしい。
後者については、上にリンクを貼ったページの情報が正しければ、行きは乗れたが帰りは危ないから乗るなと言われたことになるが、実質的に置き去りになってしまうというのはどう考えてもおかしいだろう。
間違えてはいけないのは、航空会社側の補助ができない理由自体は安全面の配慮から正しい。別に職員の対応が悪いというわけではない。ただ設備が整っていないのがいけない。

 

この手の話の時になんか前提が欠けてるよなぁ、と思うので書いておく。

 

合理的だからと言って何もしなくていいはずがない

車椅子用の設備を用意しないのは、航空会社にとってみれば明らかに合理的である。なぜならば車椅子の方は圧倒的少数であり、追加料金を払うわけでもないので、費やした費用は回収できない。

それでも、車椅子だからと飛行機に乗れないと言うのは不公平である。当たり前だ。これから飛行機に乗ろうとする健常者が航空券を取る以外に何をするというのか。

これに対して「特別の配慮が必要であるのだから、事前に連絡すべきだった」という意見がある。しかし普通に考えて車椅子の方の対応に事前の準備が必要だろうか。乗降用機器を買いに行く時間だろうか。

 

一面を見た時に合理的であっても、その裏に大きな非合理的なことがあれば、そちらが優先されるべきである。

 

権利の主張は正当な行為のみでなされるべきか

「パフォーマンスである」という面についての話である。ここでいう「正当な」とは一般的には「世間様に迷惑をかけない」という意味である。確かにこのような立場の方なら、パフォーマンスのために行ったと思われるのも仕方がない。

しかし、パフォーマンスをしに行ってはいけないのだろうか。

もしパフォーマンスではなく正当にいくならば、航空会社にすぐさま乗降用機器を購入するようにお願いするのがいいだろう。

そんなことですぐさま変わるだろうか?

直接お願いするだけで全てが変わるなら法律で縛る必要などないはずだ。そもそも正当な主張とは何か。それは多数派の決めたルールではないだろうか。

 

一般的に弱者が主張をするとき、世間が正当と認める手段である必要はない。なぜならばその主張は正当な手段を経た後のものである可能性も高いからだ。また、そもそも正当な手段を世間が用意していない場合だってある。

 

この論理は、しかしながらテロなど暴力的な行為も自己正当化できる。これが許されるかどうかはその主張によって弱者が得られる利益と比較するしかないだろう。

人を虐殺してくる政府に対してテロで対抗することはある種正当だろう。しかし車椅子の対応をして欲しいからと言ってハイジャックはやりすぎだ。今回のケースなら航空会社の評判を落とすという手段だが、許容される範囲ではないだろうか。

 

 

必要な前提はこんなところだと思う。後者の話は差別全般の文脈で出る話なので、調べればいくらでも、そこらの凡人なんかより優れた人たちが緻密に考察し、発表している。

そういう緻密な考察から得た結果をスタート地点として考えるほうがいい議論になるのではないだろうか。