今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

「学園の運営権を手放せ」は本当に大問題か?

叱り方、かなり深いテーマの気がしてきた。

 

平等に叱ることの難しさを感じてしまった。

ここでは、立憲民主党主張通りに、総理のお友だち案件によって文科省に圧力をかけ獣医学部を認可させたのだ、という主張が正しいと仮定して話を進めたい。というのは、圧力がないと仮定した場合は正直擁護のしようがないと思う。しかしながら決定的な証拠がないとは言え、面会記録がない、県側に(故意かは不明だが)虚偽の内容の文書を出すなど、圧力がないと言い切るのも難しい(と思う)ので、認めるか認めないかの立場が分かれるのは当然だろう。とすれば発言の意図はその人の事実認定に関する主張は全面的に踏襲すべきである。

 

まったく矛盾に満ちた、まさにデマカセと言っていい説明を繰り返し、逆に百歩譲って、もしこの加計理事長の言っていることが本当だとすれば…相当親しいご友人がトップである法人が総理の名を騙って、騙ったわけですからね、愛媛県今治市に対しては。しかも、勝手に騙って獣医学部の設置を有利に進めようとしたことになるわけですね。…総理と加計理事長がご友人だったことを奇貨(きか)としてやってるわけですね。…

この認可過程に決定的な問題があります。
ありましたが、学校として現に出来上がってしまい、ここの学んでいる学生さんたちがいらっしゃいます。そうした現実を踏まえるならば、やるべきことは加計理事長は加計学園の少なくとも獣医学部の経営から手を引かれ、第三者に経営権を移譲すべきであると思いますし、友人であるならば安倍総理はそれを促す責任があると思います。そうでなければ、こんないい加減な無責任な人間が教育機関のトップをやっているという教育におけるモラルの崩壊に繋がっていくとわたくしは思います。

相手が曲がりなりにも民間(私立大って民間に入るの感はあるけど)に対して経営権を手放すよう求めるってのは確かにまずい気もする。

ただ、繰り返すが、許認可の過程が本当に不適切であったとしたら、我々は政治家に何をするよう求めればよいのか。おそらく最も正しいのは認可の取り消しになると思うが、多額の税金をつぎ込んだ大学を一気に廃校に追い込むのはあまりに無駄だろう。そして最も困るのは在学生であり、また税金を投入したプロジェクトが事業者の不当な行為によって失敗すれば損害賠償という話にもなる。それを払うのはおそらく理事長だけではなく、法人の運営する学校の生徒、学生ではないか。そこまで考えれば、認可取り消しは過酷である。

とすれば次善の策としては大学の運営権の譲渡となる。これなら政治判断によるものとは言え、許認可とは無関係の生徒・学生が巻き込まれることはないだろう。

つまりこの策は、認可取り消しという「真っ当」だが非常に痛みの伴う措置を政治判断で回避するに過ぎないのではなかろうか。無関係な学生の救済とも言える。

多少強引な手法であるとは言え(批判を受けた通りである)、認可取り消しよりはよっぽどマシであるのは確かだ。ついでに言えば、自民党支持者は法的なグレーゾーンを白にする「政治判断」(主に憲法解釈)は好きだろうし…

 

繰り返すが、加計学園の件は基本事実関係の確認が甘いので、許認可が不適切だったかどうかで結論は大いに変わる。しかし、そこは個人の判断であるし、もしその事実認定に不満があるのなら、圧力だなんだと言う前にそこを主張すべきだろう。問題だ問題だと騒ぐ時点で前提条件を見逃している気もする。

 

ついでに言えば、問題に対する後処理の方法は、法的に多少怪しくても世間に許容される傾向はあると思う。

眠くなってきたので超簡単に書くと、やっぱり勧善懲悪的な価値観はみんな好きだし、悪いことしたやつが多少理不尽な目に逢おうとも大して問題にしないじゃないか。森友学園理事長夫妻の長期拘留とかをしっかり批判した人がどれだけいただろうか。

悪い人がやったことの後処理は、法的にどうのより被害者救済の方が優先されて然るべきというのが一般的だと思うので、実際はそんなに問題にならないと思っている。

 

立ち位置が違うとこんなに見えるものが違うのか、と考え込んでしまった事案だった。

叱られる不公平感のいろんな形

子ども時代の「不公平感」

叱られる時の不公平感、というものは非常に扱いが難しいと思う。

子どものとき、友だちグループで悪いとこをして自分だけ怒られて「なんで自分だけ」となったこと、あるいは近い経験はあるんじゃないか。そして「なんで自分だけ」と反論したとき、周囲の大人はなぜ自分だけを怒るのか教えてくれなかったんじゃないかと思う。

あるいはクラスメイトにちょっかいを出されて喧嘩になったが、先生はお互いさまと双方に謝罪をさせ解決したかのように振る舞う様子を、1度は見たことがあると思う。

もちろん大人になれば、悪いことをして「なんで自分だけ」と思うことはあっても口に出すことはできないだろう。悪いことをしたのが事実なら、他の人がどうであろうと謝罪しなくてはいけない、というのはどこかで学ぶことだ。

 

「叱られ」の不公平

「叱られる」ことに関する不公平は通常問題にならない。

あなたの友だちとの喧嘩は、大体が言い合いで始まり、エスカレートして取っ組み合いに終着したはずだ。

現代の社会では、事態を悪化させることは過失とされ、批判の対象となる。理由は簡単に、そうでないと社会が成り立たないから、であり、それ以外にあるとは思えない。

知らない人がどんなに汚い言葉であなたを罵っても、あなたが殴らなければ相手は怪我をしないのだ。そしてどんなにあなたが精神的に傷つこうと殴って怪我をさせたら警察に連れていかれるだろう。もちろん状況により適切な配慮はなされるだろうが、「あなたは全く悪くない」と言う人はおらず、「気持ちはわかる“けど”」「どうにか我慢できなかったの?」とほとんどの人に言われるだろう。

結局社会を維持する上で最も重要なのは他人に損害を与えないことであり、損害を与えたものは相応の批判をされる、という社会に都合がいいルールが存在するに過ぎない。そしてどんな事情があろうとも、社会に都合の悪い行動は原則悪とされ、そこからの酌量による減点法で結果が決まるのだ。どうあがいても初めから加点を0にすることはできない。

そしていくら不公平さを語っても、「いやでも殴っちゃったしねぇ」と誰もが言うだろう。側から見ればどんな理由があろうとも、社会のルールに刃向かったクソ野郎であるから、話を聞く人はいない。したがってその不公平さは是正されず、殴ったという事実のみをもって叱られ続けるのだ。

問題は、その叱られるきっかけになった行為は果たして全員の身に一斉に降りかかるのかという点だ。汚い言葉を通りかかる皆に浴びせ、その中の1人が突然殴りかかったのであれば、我慢が足りないということになるだろう。そして、残念ながらほとんどの場合、おそらくそうではない。汚い言葉を浴びせられるのは1人で、他の人にはそんな経験をしない。であるとすれば、ランダムに降りかかった事象に対して怒った結果、社会から叱られるのだ。こんな理不尽はない。

こんな理不尽を、社会のルールとして内包していることは覚えておかなくてはいけない。

 

大人の「不公平感」

ところが、子どもの頃に学んだはずの悪に対する態度、すなわち「理由はどうあれ悪いことは悪く、罰を受ける」というルールに真っ向から対立するルールが社会に存在する。「公平さ」だ。

これはもう最悪である。複雑怪奇、魑魅魍魎、右往左往。しかも公平さと不公平さのバランスを取るのが大人であるというのだから、大人になれない者が世の中に溢れていても全く驚かない。

こんな意味不明な概念を、なぜか皆心得ているかのように振る舞う。学校の先生は喧嘩した子どもをまとめて叱り、裁判官は他人を殴った被告人をさも思いやりがあるかのように叱るのである。「公平に」社会への反逆者を「不公平に」降りかかった悪いことをしたという事実をもって叱るのである。そして意味不明な概念を意味不明な用途に使うので、世の中は「「「素晴らしいこと」」」で溢れる。

そしてそれは、何をしたら叱られるか、あるいは何をした時に叱るのかの判断に大いなる影響を及ぼす。自分が叱られたことがあることについては適切に叱れるが、経験のない「悪いこと」には自分が思う「公平さ」に基づいて叱るのである。そんな「公平さ」には何の裏付けもないから、ただの私刑にしかなり得ないのだ。たちが悪いのは、「公平」であるべきなのに、叱ることに関しては「不公平」であってよいという矛盾があることだ。つまり、叱られる方が常に悪いのだ。実に「「「素晴らしい」」」ことである。

このような矛盾は、残念ながら世の中で形を変えて我々の前に現れる。1つは叱られる方が悪いという価値観に基づくもの、もう1つはこの矛盾への反感に基づくものだ。

では、とは具体的にどのようなものか、考えていきたい。

 

大人の「不公平感」による矛盾

最初に1番わかりやすい形で現れるのは、交通違反の取り締まりだろうか。叱られる方が悪いという価値観を大いに利用し、違反しやすい場所の改善を図るでもなく、ただ金を稼ぐことができる。別に世の中は良くならない。Coinhiveの件も好きじゃないなぁ。

あるいは、刑罰に関する議論か。よく見るのは「殺人を犯したやつは全員死刑にしろ」「心神喪失者が刑を免除されるのはおかしい」とかか。叱られる方が悪いのであって、事情は考える必要がないということなのだろう。実に「公平」ではあるが、もちろん世の中は良くならない。てか自動車の死傷事故どうすんねん。

叱られる方が悪いという価値観は、我々を不自由にする。人間は進歩するから、叱られるべき行動はどんどん増える。叱られることは悪いことだ。悪い人にはみんななりたくないから、どんどん何もしなくなっていく。また、どちらも叱られるべきだが、どちらをより優先して叱るかという場面で、より叱りやすい方を選ぶようになる。世の中を悪い方向に導いてしまうのが矛盾の行き着く先である。

 

逆に「叱られる方が悪い」への反感で言えば、たくさんある。「自民党を批判する人はこれこれこういうが、じゃあ民主党政権下ではどうだったんだ」「は◯ちゅうはMetooMetoo言うが、お前も童貞バカにしてたじゃないか」などか。あと最近これ見た。

「いやいや、どっちもやっちゃいかんでしょ」という言説は、残念ながら支持を得られない。さらに多くの場合、片方は今まで黙認されていて、新しい方だけが槍玉にあげられる。こうなればただの不平不満ではなくなり、平等と不平等の、正義と正義の戦いになる。そして無限に結論が出ることはなく、その間にハイエナが利益をかっさらっていく。

叱られる方が悪いという価値観への反感は、議論の堂々巡りを招く。しかし、どちらも叱られるべきだが、どちらをより優先して叱るかという場面でもまた問題が起きる。お互いの悪いところを挙げあうので、誰を優先して叱るかが判断しづらくなる。全員を公平に叱らなくてはいけなくなる。世の中は良くなるが、非効率的かもしれない。

 

我々はどうするべきか

簡単である。公平か不公平かではなく、世の中が良くなるかならないかで行動を決めよう。

 

追記

これやん

https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2581%259D%25E3%2581%25A3%25E3%2581%25A1%25E3%2581%2593%25E3%2581%259D%25E3%2581%25A9%25E3%2581%2586%25E3%2581%25AA%25E3%2582%2593%25E3%2581%25A0%25E4%25B8%25BB%25E7%25BE%25A9

「幸色の〜」を始めとする、犯罪表現に対する批判への反論(1) 批判の程度について

 

 

最近の表現の自由界隈における炎上事案のまとめみたいな話をする。

 

対象事案

今回まとめに入れたい作品(と炎上事案)はこれ

幸色のワンルーム

『幸色のワンルーム』放送中止に批判の嵐……弁護士・太田啓子氏が「誘拐肯定」の意味を語る - Togetter

万引き家族

『万引き家族』は観てないけど犯罪を正当化してるから最低、と主張する人達+α - Togetter

ゆらぎ荘の幽奈さん

「ゆらぎ荘の幽奈さん」(週刊少年ジャンプNo.31 巻頭カラー)炎上問題/まとめのまとめ - Togetter

のうりん(ただしポスター)

「のうりん」ポスターは女性差別なのか - Togetter

日向市PR動画

太田啓子弁護士、日向市のPR動画を絶賛 ← デブやインドア派差別だと批判殺到 - Togetter

女性エンジニアがいるとやる気出る

 

なんか論点めちゃ多いので、分割してやっていきたい。

 

私人間の「表現の自由」をどうとらえるべきか

表現の自由」という言葉は日本国憲法第21条に示され、非常に一般的な概念である。しかしながら、「表現の自由」はあくまで憲法の記載であるから、私人間、例えば(レガシー)メディア、出版社、さらには同人誌といった媒体で発表される表現に対して国家権力でない人が抗議し圧力をかけること*1が行われることがある。

これらの問題における論点の1つとして、過剰な抗議は表現活動全般を萎縮させかねず、不適切ではないかというものがある。自主規制という名目で少しでも批判される要素がある表現をしなくなる、できなくなるということだ。

それに対して、憲法はあくまで国家と国民の関係を定義するものであるから、私人がどのような抗議をしてもいいのではという主張がある。これを全面的に採用できるかといえば全くそんなことはない*2

【悲報】ハヤブサくん、「民間同士の言論弾圧ならやっていい」と言ってしまう - Togetter

批判されるポイントはだいたいここにまとまっている。つまり両方に批判する権利はあるが、実力行使の程度は考えなくてはいけないということだ。

 

私はこれに対して、放送中止、販売中止に追い込むのは行き過ぎだと考える。作品がどのようなものであっても、世の中に出すことが決定されているものを中止させるのはあまりに影響が大きい。

ドラマの製作費、マンガであれば漫画家の収入と言った経済活動にまで介入してしまっては会社や作家の生活、さらには人生を変えてしまう。人生を変えられる覚悟をもって、しかもこんなどうでもいい、傷つける対象が大雑把な*3表現に人生をかける人などいるはずがない。人生をかけないといけないとしたら、それは決して健全な社会ではない*4

我々がある表現を批判するとしたら、その現在存在する表現ではなく、これから生まれる表現が不適切でなくなるようにする、次がないようにする働きかけがいいところではないだろうか。

 

ただし、「傷つける対象が大雑把」な表現については少し掘り下げなくてはいけない。例えばヘイトスピーチが今話題であるが、そのような多数の人間を少しずつ傷つける表現に対して社会はあまり有効な手段を持っていない。

定性的な話になってしまうが、(1人あたりの被害)×(人数)を被害の総量とおくことにする。この1人あたりの被害というのは物理的、精神的な被害の両方を含む。例えば1人あたりの被害が大きく、人数が少ない行動の代表例は殺人だ。逆に1人あたりの被害が小さく、人数が多い行動は人種差別、性差別、公害などである。前者は犯罪という形で現れるため対処しやすいが、後者は具体的な被害を産みづらく対処しづらい。後者のような問題に対する対処法は近年頻繁に議論されているところであり、別に考察する必要がある。

*1:国歌による表現の自由の抑圧という過程では、検閲と暴力による直接的な行動以外にも、間接的な対処(違法サイトのブロッキングなどにおける民間へのお願い)が問題になることがあるので、圧力を含めてもいいだろう

*2:表現の自由の問題ではなく、倫理的問題として

*3:具体的な被害者が存在しないという意味で。

*4:蟹工船かよ

出産育児を経ての男女平等のために、どこにどんなコストを払うべきか?

togetter.com

すごく深いから全部読んで。

 

で、深く考えこんでしまったのは、女性が出産育児によって失った経済的不利益とは何なのだろうか、いや本当に不利益が存在するのだろうか、という疑問。

 

女性の出産育児に関する負担から男性と同じように働くのが難しい、は前から言われている話で、それに対する社会からの補償も考える人は多いと思う。でも、我々は何に対して、誰に対して補償すれば男女平等に近づくんだろうか。

 

現状の出産育児を考えるとき、結婚していない男女の場合を想定することは9割9分ないと思う。結婚していることは大前提だ。結婚している場合、基本的に収入は家庭に入る、夫婦共同の資産である。女性のみが経済的な不利益を被っているわけではなく、家庭に入る総収入が減るだけだ。妊娠出産育児の過程で退職せざるを得なくなることはあるだろうが、それは離婚しない限り妻だけが経済的に不利になるということではない。

 

これが問題になるとしたら育児後に離婚した場合だろうか。もし子どもを引き取るならば、元夫が養育費を支払い妻が自分に必要な収入を稼げばいい。

もし育児をせず働き続けていれば得られたはずの収入に達しない、という場合を考えなければいけない。これは確実に育児によって女性が不利を被ったと考えられるパターンだが、もしそれを算定するとしてどう算定するのか、また離婚した女性のみが社会からの追加援助を得られるとしたら不公平ではないか、それは元夫が負担すべきではないのか、それならば元妻も同様に不利益を負担すべきではないのか、離婚しても家計を共有する必要があるならば離婚とは何なのか・・・

夫が養育費を支払わないという問題は確かにあるけど、だから女性は弱いのだってのもなんかなぁ、払うべき金を払わない人に対する請求が難しいのは社会全体がそうだしなぁ、社会全体がそうだからこそ社会が配慮すべきってことかなぁ。

 

もし社会全体に対して補償(?)した場合はどうだろうか。よりよい環境を整備するための投資として支払う。妊娠出産育児の期間のみ人を雇うための金を出す・・・保育所を増やす・・・

 

わからなくなってしまった。そもそも男女平等を目指すために妊娠出産育児に対する経済的援助は必要なのか?それは少子化対策であって男女平等のための施策ではないのではないか・・・

 

 

経済的に無力・・・そっかぁ・・・家制度の外で・・・

経済的に無力ってなんだろうな。結婚してればほぼ無条件で夫の収入半分使えるのに、何が無力なんだろう。てか稼いでくるのは夫だから妻は手を出せない、だから強権的な夫に逆らえない、離婚もできないって意味で言うならそれ性別のせいじゃなくない?それ夫婦として既に崩壊してるけど、人間関係が崩壊した責任を社会が負うのかな・・・

 

支配ってなんだろう・・・

上野千鶴子「女ぎらい」感想

インターネッツフェミニズム論争だけ読むのに飽きてきたので、大御所の本を読んでみる。

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全体を通して

2010年に出版された本にしては考察の手法や根拠が古い気がして、解釈の方向性を誤っているのでは?というところが多々ある。というより、この解釈を日本に広めたのが上野さんだったような気がする(ちゃんと知らない)。

この本では、男は女を所有することで男としての価値を得、女は男に所有されることで女としての価値を得るのだ、それには男女問わずに女性を蔑む価値観(ミソジニー)が不可欠で、それは現在も変わっていない、という解釈(以下旧来の解釈という)を軸にして話を進めている。したがって、同性愛者や小児愛者について述べつつも、上記の解釈を軸としているが故に近年の方向性とは違う結論に至っている。

まさに現在進行形で起きている事項を解釈するには向いていない気がするので、今のツイッターフェミニズム、および反フェミニズムの直接の助けにはならなそうな気もする。SNSとか時代の最先端(というか先鋭の方が近い?)いってるし。

 

前半部分について

この本の前半部分(1-10章ぐらい)は、一部(「非モテ」と「小児性愛」について)を除き、フェミニズムミソジニーについて従来通りの解釈を説明していく。主には上で述べた男と女としての価値がどう決まるか、聖女と娼婦の区別*1、歴史的にミソジニーはどう誕生し変化したのか、などが述べられている。

 

上で除いた部分は具体的事例を旧来の解釈によって説明している章だ。僕がこの本を古めかしいと感じるのは、このへんの解釈がどうもズレているように感じるからだろう。

特に4章の「『非モテ』のミソジニー」は男性性的弱者論や秋葉原通り魔事件、恋愛の自由市場化といったテーマと、5章「児童性虐待者のミソジニー」で小児性愛とアニメ・マンガ規制というネット上で論争が激しい分野を、サラリとつまみ食いしながら通り過ぎている。

例えば男性性的弱者論の意図するところは、恋愛自由市場において上位男性が多くの女性を占有しており、中程度の位置にいる男性ですら女性にたどり着けないという問題が根本であるはずだが(もちろん「女を当てがえ論」など派生したより過激なものもあるが)、この本では女性の性的弱者を無視した男性本位の考えである、としている*2。さらにはそれは男性の社会的スキルの不足によるもので、女性が批判される筋合いはないと言う。

これらを読む限り、男性性的弱者論における論点、例えば運や環境に左右される競争は公平なのかといった問題をことごとく無視しているように思える。

かといって論の組み立てに矛盾が生じているわけではないので、旧来の解釈を適用する上での限界という見方の方が近いと思う。男性がすべての価値を決められるのだ、という旧来の解釈を用いる限り男性性弱者論が成り立たないのは当然の話で仕方ないのかなって感じ。

 

後半部分について

後半は旧来の解釈による事件や社会問題の解説という感じなので、正直ちゃんと読んでない。

おもしろかったのは「女子校文化とミソジニー」と「ミソジニーは超えられるか」って章か。

 

前者では女子校という異性の目がない環境をどう生きているかに着目し、共学との差異を論じることで女は男によってどのような影響を受けるかを論じている。

ここではその差異を元に、女の価値が男によって決められていることがわかる、と結論づけている。ただ、著者は共学校文化は男子校文化と「それに付随した」異性文化から成ると主張し、その2つと女子校の文化の比較としている。

そりゃ20世紀だったらそれでいいかもしれんが、少なくとも2006年で(この章で出ている参考文献は2006年のもの)男子校と共学をまとめるのはおかしい(と経験者は語る)。現在の主流は明らかに共学校文化であり、男子校文化は全く別のものであると解釈すべきだ。章の主題は共学校文化と女子校文化の比較であるからあまり影響はないのだが、共学校文化の中に男子校文化を見出そうとする(≒共学校文化は男子校文化、つまり男性のみの集団の価値観によるものである)という解釈をするのは明らかにミスリードである。男子校文化について明確に論じている部分はないが、もしこの価値観を持って前述の「非モテ」を語っているとすれば、大きく見誤っている可能性が大きい。

後者については、女性学に対する男性学について述べ、男性が男性固有の苦しみから抜け出すにはどうすべきかについて軽く述べている。(個人的に)残念ながら、ここでも男性の苦しみは女性を所有できない苦しみであると(しかも無根拠に)し、ミソジニーに由来する苦しみであると結論づけている。したがって解決策もミソジニーから抜け出すことに主眼を置く。

 

まとめ

全体的にネット論争で行われているよりも若干古い価値観を用いて説明しているので、なかなか納得できない部分がある。

一つ大きな勉強になったのは、インターネッツフェミニストは適当なことを言っているわけではなかったということだ。彼女ら(少数だが彼らもいる)が主張する事柄はこの本に述べられた旧来の解釈から容易に導き出される。したがって(論拠の適不適を別にすれば)適切な主張である。

しかしながら上で述べたように、旧来の解釈は、現在ネットで論じられている事柄全てを適切に説明できるわけではないだろう。適宜修正していくことが重要であるのかと思う。

 

個人的には、現代にもミソジニー的な価値観が全面的に残っているのだという主張はさまざまな面から否定、あるいは拒否されるべきなのではないかと考えている。

1つは上で述べたように旧来の解釈で説明しきれないテーマが多く出現している。すなわちミソジニーが既に消え去った、あるいは影響していない領域が存在しているのではないかということだ。

次にこの旧来の解釈は確かに一時期の社会を良く説明していると思うが、それは本当に根本的な要因であったのか疑問がある。今僕が気になっているのは、女性蔑視も人権軽視の一面でしかなかったのではないかという考えだ。女性が性役割を押し付けられていたのは確かであっただろうが、同様に男性も役割を押し付けられていたのではなかろうか、という観点が最近ネット論者から出されている。代表的な面が男性の高い自殺率、危険な労働への従事、さらには兵役といった面で現れているという見方である。であるとすれば、ミソジニーの解消は人権の尊重によってなされることになり、より望ましい対処法になる。

最後に、ミソジニーが全面的に残っていることが事実であるとしても、もはや我々はその事実を語るべきではないのではないかという思いだ。これらの考えは全ての責任を男性に押し付けることで成り立つ。差別解消運動以前は男性が女性より圧倒的優位に立っていたとすれば、多少の慈悲を与える=自分が悪者になっても気がすむならいいか、となるが、今はもはやそのような気の持ちようができる時代ではない。そのような時代においてあえて対立構造を強調する必要はなく、もっと融和な解釈をすることも可能であり、より望ましいと思う。融和のために過激な解釈をあえて取り下げることもあって良いのではないか、これが否定ではなく拒否としての選択ができないか、という考えである。

*1:最近でもこんな感じの記事あったけど、これ割と前から言われてるんじゃないの?

「男性作家が描く女性像は3パターンしかない」と書かれた記事が物議。大喜利を始める者も。 - Togetter

*2:ここだけはいわゆる「クソリプ」に近いと思う。問題にしている領域の外から、じゃあこれはどうなんだ、と持ち出してくるのは筋がよくない。

ワクチン拒否は悪?

今日のにゃーん。

 

 

内容はわかる、言いたいこともわかる、気持ちもわかる。でも僕は嫌い。

 

1つは複雑な問題を単純化した善悪の二極に持ち込んでるのが嫌い。とはいえ文字数の制限があるTwitterだから仕方ないと思う。

 

もう1つは、もしかしたら考え過ぎかもしれんけど、10万人あたり3人を過小評価してる気がして嫌い。

例えば交通事故死者数の人口に対する割合を見てみる。

【交通事故死者数・速報】全国は前年比210人減!さらに県別データを徹底詳解! | Park blog JAF Mate Park

これだと2017年の全国平均は10万人あたり3.62人。

 

まあ数字だけ見れば全く気にしなくていい気はするけど、実際はみんな交通事故死って気にするよね。日常生活でも常に気をつけてるって人、割と多いと思う。気をつければ事故に遭いにくくなるってのは確かだけど、これでも以前から比べたら劇的に減ってるので、一種のくじ引きに近いんじゃないかって気もする。

 

他には、国の指定する特定疾患の患者は人口10万人あたり1人ぐらいのオーダーらしいので、何らかの疾患にかかるのを考えたらワクチン副作用と同じぐらいの割合で出てくるって言っていい気がする。でも難病にかからないよう普段から気をつけてるって人はそんなにいないと思う。

 

僕が言いたいことは、10万人あたり3人ってのは、皆が皆完全に気にせずにいける数字じゃないと思う。

例えば、小学校入学の年齢に年齢別交通事故死傷者数のピークがあるのはよく知られていると思うけど、

死者数でいうと10万人あたり1人未満。でも実際は不安に思う人が相当数居ると思う。

不安に思うかどうかは知識量とか考え方、リスクの見積もりの程度にもよると思うし(知識が足りずに間違った判断をするのは問題だが)、他人がとやかく言うことじゃないと思う。

リスクを過大評価しすぎだ、それより社会の利益を考えろって言うのは簡単だけど、世の中めっちゃ確率が低いことを不安がったり問題にするなんていくらでもある(冤罪、原発事故の風評被害北朝鮮のミサイル)。その不安を取るに足りないことにして「正しい」選択を迫る社会を、少なくとも僕は受け入れたくない。

不安に思ってたらきりがないのもわかる。生きていくには割り切るのが必要だ。でも他人がそれを押しつけると良い結果を産まないのは明らかじゃないか。

 

不安な気持ちはわかる、それでもできる限り社会に利する行動をしてほしい、が我々が主張できる限界ではないだろうか。

女性のセクハラ告発はリスク?

気になりツイ。

 

 

偉い人から見ればそうかもしれないが、これはさすがに女性差別に入ってもおかしくないんじゃないか?とずっと気になってる。

この手の性差に起因する「合理的な」考え方に対する反論はいくつもなされていて、そのうちのいくらかについては社会的に(少なくとも表面上は)正しい、またはそうすべきだと言われている類のものがある。

例えば

  1. 女性は結婚して退職してしまうから、重要なポストにはつけられない
  2. 育児休暇を取る女性は会社にとって重荷であり退職してほしい
  3. 黒人の犯罪率は高いから、白人の人権を守るために隔離されてしかるべきだ

これらは確かに明確な根拠に基づいて主張されている。では社会でこの主張が受け入れられているかというと、そうではない。

1の場合はいわゆる鶏と卵というやつで、原因と結果が相互に影響しあっているものだ。2の場合は、会社の利益よりも女性の社会進出が進むことの方がより大きな利益になるという観点から認められない。3については色々議論があるだろうが、1つには本意を隠すことができてしまう点が問題なのだろうと思う。微小なリスクは世の中にいくらでもあるから、好き嫌いで決めたことにそれっぽい理由をつければ差別し放題である。

 

今回のパターンは3に近い気がしてならない。すなわち、セクハラのこじつけなどという過少なリスクを理由にして差別をしてしまっているのではないかということだ。性別というくくりは広すぎる。

今は問題が報道された直後であるが、今後もずっと同じような状況が続くようであれば、性差別であるとして告発していくべきではないか。実際は力関係から不可能だろうが、だからといって批判の対象を間違えてはいけないと思う。

 

追記: