今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

出産育児を経ての男女平等のために、どこにどんなコストを払うべきか?

togetter.com

すごく深いから全部読んで。

 

で、深く考えこんでしまったのは、女性が出産育児によって失った経済的不利益とは何なのだろうか、いや本当に不利益が存在するのだろうか、という疑問。

 

女性の出産育児に関する負担から男性と同じように働くのが難しい、は前から言われている話で、それに対する社会からの補償も考える人は多いと思う。でも、我々は何に対して、誰に対して補償すれば男女平等に近づくんだろうか。

 

現状の出産育児を考えるとき、結婚していない男女の場合を想定することは9割9分ないと思う。結婚していることは大前提だ。結婚している場合、基本的に収入は家庭に入る、夫婦共同の資産である。女性のみが経済的な不利益を被っているわけではなく、家庭に入る総収入が減るだけだ。妊娠出産育児の過程で退職せざるを得なくなることはあるだろうが、それは離婚しない限り妻だけが経済的に不利になるということではない。

 

これが問題になるとしたら育児後に離婚した場合だろうか。もし子どもを引き取るならば、元夫が養育費を支払い妻が自分に必要な収入を稼げばいい。

もし育児をせず働き続けていれば得られたはずの収入に達しない、という場合を考えなければいけない。これは確実に育児によって女性が不利を被ったと考えられるパターンだが、もしそれを算定するとしてどう算定するのか、また離婚した女性のみが社会からの追加援助を得られるとしたら不公平ではないか、それは元夫が負担すべきではないのか、それならば元妻も同様に不利益を負担すべきではないのか、離婚しても家計を共有する必要があるならば離婚とは何なのか・・・

夫が養育費を支払わないという問題は確かにあるけど、だから女性は弱いのだってのもなんかなぁ、払うべき金を払わない人に対する請求が難しいのは社会全体がそうだしなぁ、社会全体がそうだからこそ社会が配慮すべきってことかなぁ。

 

もし社会全体に対して補償(?)した場合はどうだろうか。よりよい環境を整備するための投資として支払う。妊娠出産育児の期間のみ人を雇うための金を出す・・・保育所を増やす・・・

 

わからなくなってしまった。そもそも男女平等を目指すために妊娠出産育児に対する経済的援助は必要なのか?それは少子化対策であって男女平等のための施策ではないのではないか・・・

 

 

経済的に無力・・・そっかぁ・・・家制度の外で・・・

経済的に無力ってなんだろうな。結婚してればほぼ無条件で夫の収入半分使えるのに、何が無力なんだろう。てか稼いでくるのは夫だから妻は手を出せない、だから強権的な夫に逆らえない、離婚もできないって意味で言うならそれ性別のせいじゃなくない?それ夫婦として既に崩壊してるけど、人間関係が崩壊した責任を社会が負うのかな・・・

 

支配ってなんだろう・・・

上野千鶴子「女ぎらい」感想

インターネッツフェミニズム論争だけ読むのに飽きてきたので、大御所の本を読んでみる。

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全体を通して

2010年に出版された本にしては考察の手法や根拠が古い気がして、解釈の方向性を誤っているのでは?というところが多々ある。というより、この解釈を日本に広めたのが上野さんだったような気がする(ちゃんと知らない)。

この本では、男は女を所有することで男としての価値を得、女は男に所有されることで女としての価値を得るのだ、それには男女問わずに女性を蔑む価値観(ミソジニー)が不可欠で、それは現在も変わっていない、という解釈(以下旧来の解釈という)を軸にして話を進めている。したがって、同性愛者や小児愛者について述べつつも、上記の解釈を軸としているが故に近年の方向性とは違う結論に至っている。

まさに現在進行形で起きている事項を解釈するには向いていない気がするので、今のツイッターフェミニズム、および反フェミニズムの直接の助けにはならなそうな気もする。SNSとか時代の最先端(というか先鋭の方が近い?)いってるし。

 

前半部分について

この本の前半部分(1-10章ぐらい)は、一部(「非モテ」と「小児性愛」について)を除き、フェミニズムミソジニーについて従来通りの解釈を説明していく。主には上で述べた男と女としての価値がどう決まるか、聖女と娼婦の区別*1、歴史的にミソジニーはどう誕生し変化したのか、などが述べられている。

 

上で除いた部分は具体的事例を旧来の解釈によって説明している章だ。僕がこの本を古めかしいと感じるのは、このへんの解釈がどうもズレているように感じるからだろう。

特に4章の「『非モテ』のミソジニー」は男性性的弱者論や秋葉原通り魔事件、恋愛の自由市場化といったテーマと、5章「児童性虐待者のミソジニー」で小児性愛とアニメ・マンガ規制というネット上で論争が激しい分野を、サラリとつまみ食いしながら通り過ぎている。

例えば男性性的弱者論の意図するところは、恋愛自由市場において上位男性が多くの女性を占有しており、中程度の位置にいる男性ですら女性にたどり着けないという問題が根本であるはずだが(もちろん「女を当てがえ論」など派生したより過激なものもあるが)、この本では女性の性的弱者を無視した男性本位の考えである、としている*2。さらにはそれは男性の社会的スキルの不足によるもので、女性が批判される筋合いはないと言う。

これらを読む限り、男性性的弱者論における論点、例えば運や環境に左右される競争は公平なのかといった問題をことごとく無視しているように思える。

かといって論の組み立てに矛盾が生じているわけではないので、旧来の解釈を適用する上での限界という見方の方が近いと思う。男性がすべての価値を決められるのだ、という旧来の解釈を用いる限り男性性弱者論が成り立たないのは当然の話で仕方ないのかなって感じ。

 

後半部分について

後半は旧来の解釈による事件や社会問題の解説という感じなので、正直ちゃんと読んでない。

おもしろかったのは「女子校文化とミソジニー」と「ミソジニーは超えられるか」って章か。

 

前者では女子校という異性の目がない環境をどう生きているかに着目し、共学との差異を論じることで女は男によってどのような影響を受けるかを論じている。

ここではその差異を元に、女の価値が男によって決められていることがわかる、と結論づけている。ただ、著者は共学校文化は男子校文化と「それに付随した」異性文化から成ると主張し、その2つと女子校の文化の比較としている。

そりゃ20世紀だったらそれでいいかもしれんが、少なくとも2006年で(この章で出ている参考文献は2006年のもの)男子校と共学をまとめるのはおかしい(と経験者は語る)。現在の主流は明らかに共学校文化であり、男子校文化は全く別のものであると解釈すべきだ。章の主題は共学校文化と女子校文化の比較であるからあまり影響はないのだが、共学校文化の中に男子校文化を見出そうとする(≒共学校文化は男子校文化、つまり男性のみの集団の価値観によるものである)という解釈をするのは明らかにミスリードである。男子校文化について明確に論じている部分はないが、もしこの価値観を持って前述の「非モテ」を語っているとすれば、大きく見誤っている可能性が大きい。

後者については、女性学に対する男性学について述べ、男性が男性固有の苦しみから抜け出すにはどうすべきかについて軽く述べている。(個人的に)残念ながら、ここでも男性の苦しみは女性を所有できない苦しみであると(しかも無根拠に)し、ミソジニーに由来する苦しみであると結論づけている。したがって解決策もミソジニーから抜け出すことに主眼を置く。

 

まとめ

全体的にネット論争で行われているよりも若干古い価値観を用いて説明しているので、なかなか納得できない部分がある。

一つ大きな勉強になったのは、インターネッツフェミニストは適当なことを言っているわけではなかったということだ。彼女ら(少数だが彼らもいる)が主張する事柄はこの本に述べられた旧来の解釈から容易に導き出される。したがって(論拠の適不適を別にすれば)適切な主張である。

しかしながら上で述べたように、旧来の解釈は、現在ネットで論じられている事柄全てを適切に説明できるわけではないだろう。適宜修正していくことが重要であるのかと思う。

 

個人的には、現代にもミソジニー的な価値観が全面的に残っているのだという主張はさまざまな面から否定、あるいは拒否されるべきなのではないかと考えている。

1つは上で述べたように旧来の解釈で説明しきれないテーマが多く出現している。すなわちミソジニーが既に消え去った、あるいは影響していない領域が存在しているのではないかということだ。

次にこの旧来の解釈は確かに一時期の社会を良く説明していると思うが、それは本当に根本的な要因であったのか疑問がある。今僕が気になっているのは、女性蔑視も人権軽視の一面でしかなかったのではないかという考えだ。女性が性役割を押し付けられていたのは確かであっただろうが、同様に男性も役割を押し付けられていたのではなかろうか、という観点が最近ネット論者から出されている。代表的な面が男性の高い自殺率、危険な労働への従事、さらには兵役といった面で現れているという見方である。であるとすれば、ミソジニーの解消は人権の尊重によってなされることになり、より望ましい対処法になる。

最後に、ミソジニーが全面的に残っていることが事実であるとしても、もはや我々はその事実を語るべきではないのではないかという思いだ。これらの考えは全ての責任を男性に押し付けることで成り立つ。差別解消運動以前は男性が女性より圧倒的優位に立っていたとすれば、多少の慈悲を与える=自分が悪者になっても気がすむならいいか、となるが、今はもはやそのような気の持ちようができる時代ではない。そのような時代においてあえて対立構造を強調する必要はなく、もっと融和な解釈をすることも可能であり、より望ましいと思う。融和のために過激な解釈をあえて取り下げることもあって良いのではないか、これが否定ではなく拒否としての選択ができないか、という考えである。

*1:最近でもこんな感じの記事あったけど、これ割と前から言われてるんじゃないの?

「男性作家が描く女性像は3パターンしかない」と書かれた記事が物議。大喜利を始める者も。 - Togetter

*2:ここだけはいわゆる「クソリプ」に近いと思う。問題にしている領域の外から、じゃあこれはどうなんだ、と持ち出してくるのは筋がよくない。

ワクチン拒否は悪?

今日のにゃーん。

 

 

内容はわかる、言いたいこともわかる、気持ちもわかる。でも僕は嫌い。

 

1つは複雑な問題を単純化した善悪の二極に持ち込んでるのが嫌い。とはいえ文字数の制限があるTwitterだから仕方ないと思う。

 

もう1つは、もしかしたら考え過ぎかもしれんけど、10万人あたり3人を過小評価してる気がして嫌い。

例えば交通事故死者数の人口に対する割合を見てみる。

【交通事故死者数・速報】全国は前年比210人減!さらに県別データを徹底詳解! | Park blog JAF Mate Park

これだと2017年の全国平均は10万人あたり3.62人。

 

まあ数字だけ見れば全く気にしなくていい気はするけど、実際はみんな交通事故死って気にするよね。日常生活でも常に気をつけてるって人、割と多いと思う。気をつければ事故に遭いにくくなるってのは確かだけど、これでも以前から比べたら劇的に減ってるので、一種のくじ引きに近いんじゃないかって気もする。

 

他には、国の指定する特定疾患の患者は人口10万人あたり1人ぐらいのオーダーらしいので、何らかの疾患にかかるのを考えたらワクチン副作用と同じぐらいの割合で出てくるって言っていい気がする。でも難病にかからないよう普段から気をつけてるって人はそんなにいないと思う。

 

僕が言いたいことは、10万人あたり3人ってのは、皆が皆完全に気にせずにいける数字じゃないと思う。

例えば、小学校入学の年齢に年齢別交通事故死傷者数のピークがあるのはよく知られていると思うけど、

死者数でいうと10万人あたり1人未満。でも実際は不安に思う人が相当数居ると思う。

不安に思うかどうかは知識量とか考え方、リスクの見積もりの程度にもよると思うし(知識が足りずに間違った判断をするのは問題だが)、他人がとやかく言うことじゃないと思う。

リスクを過大評価しすぎだ、それより社会の利益を考えろって言うのは簡単だけど、世の中めっちゃ確率が低いことを不安がったり問題にするなんていくらでもある(冤罪、原発事故の風評被害北朝鮮のミサイル)。その不安を取るに足りないことにして「正しい」選択を迫る社会を、少なくとも僕は受け入れたくない。

不安に思ってたらきりがないのもわかる。生きていくには割り切るのが必要だ。でも他人がそれを押しつけると良い結果を産まないのは明らかじゃないか。

 

不安な気持ちはわかる、それでもできる限り社会に利する行動をしてほしい、が我々が主張できる限界ではないだろうか。

女性のセクハラ告発はリスク?

気になりツイ。

 

 

偉い人から見ればそうかもしれないが、これはさすがに女性差別に入ってもおかしくないんじゃないか?とずっと気になってる。

この手の性差に起因する「合理的な」考え方に対する反論はいくつもなされていて、そのうちのいくらかについては社会的に(少なくとも表面上は)正しい、またはそうすべきだと言われている類のものがある。

例えば

  1. 女性は結婚して退職してしまうから、重要なポストにはつけられない
  2. 育児休暇を取る女性は会社にとって重荷であり退職してほしい
  3. 黒人の犯罪率は高いから、白人の人権を守るために隔離されてしかるべきだ

これらは確かに明確な根拠に基づいて主張されている。では社会でこの主張が受け入れられているかというと、そうではない。

1の場合はいわゆる鶏と卵というやつで、原因と結果が相互に影響しあっているものだ。2の場合は、会社の利益よりも女性の社会進出が進むことの方がより大きな利益になるという観点から認められない。3については色々議論があるだろうが、1つには本意を隠すことができてしまう点が問題なのだろうと思う。微小なリスクは世の中にいくらでもあるから、好き嫌いで決めたことにそれっぽい理由をつければ差別し放題である。

 

今回のパターンは3に近い気がしてならない。すなわち、セクハラのこじつけなどという過少なリスクを理由にして差別をしてしまっているのではないかということだ。性別というくくりは広すぎる。

今は問題が報道された直後であるが、今後もずっと同じような状況が続くようであれば、性差別であるとして告発していくべきではないか。実際は力関係から不可能だろうが、だからといって批判の対象を間違えてはいけないと思う。

 

追記:

インターネットフェミニストが求めているのは何か?

 

これを書いた後、考え続けてたこと。彼(女)らが言っていることから主張をまとめると、違和感があるのはなぜだろうか。

 

 

人格に限らず、人の能力と性別は関係しないことはフェミニストの大前提だと思っていたのだが、そうでもないらしい。

 

じゃあ結局この人たちの主張の根本は何だろうか。男女の能力に差がある(どちらが優れているかは問わない)のだ、という主張をする場合の目的は何だろうか。正直全くわからない。

「女性は男性より人格が優れているから、社会はもっと女性を求めるべきだ」? 意味不明だ。

具体的な目標がない選民思想に近いのだろうか。これが一番しっくりくるな。

 

彼らの思想は何なのか、手がかりが欲しい。

男性は生きているだけで女性より人格が劣るのであって、勉強が欠かせないという。人格が劣っているからこそ男性は女性に迷惑をかけるのだ、という思想だから、必然的に男性に対して「人格レベルを上げるための勉強」を求めているわけだ。

 

 

「全ての男性を悪者にしたいわけではない」けれども「多くの男性は女性差別意識に気づいていない」「気づきを与えることが必要」って感じか。難しい概念ですね。

 

一方でこう言う人もいる。割とよく言われる話ではあるけど。

 

これはわかりやすくまとまっていていい。日本にはまだまだ女性に加害する男がたくさんいるから、正しい意思を持つ男が積極的に動いて女性を守るべきだ、ということらしい。

 

 

男性はフェミニストにならなくてはいけない?

 

https://mobile.twitter.com/b_ksou

 

誰しも学校で1度は違法薬物の授業受けたことがあると思うんだけど、どう思いましたか?

ぼくは時間の無駄だと思いました。なぜならぼくは薬物をやりたいと思わないからです。

ましてや友人を薬物から守るために反対をしよう、君は何かアクションを起こすべきだ、とか言われたらおかしくないですか?

 

確かに女性が性被害に遭わない権利はある。加害者は男性がほとんどだ。だからといって男性の価値観こそが原因だって言われても困る。そして社会に蔓延したその価値観を正すためにフェミニストになるべきだ、って言われても、知らんがな、めんどくせえこと押し付けんなって思うのは普通で悪いことではないと思う。

 

加害者と男性が区別できていない、っていうのはそうだと思っている。

男性という枠を犯罪対策の対象にするのは広すぎる。日本人の半数は男性だ。犯罪対策のためには日本人の半数の意識を変えることが重要だ、と言っているのである。より効果的で枠を絞り込める対策が他にあるはずだ。

一方で加害者と男性を区別できていなければ、男性に対して啓蒙しろというのは実に効果的な案である。男性は力があり性的衝動が強いがゆえに、誰しもが加害者になりえると言うならば、加害者予備軍はまさに男性という枠そのものであり過不足がなく、啓蒙は大きな効果を上げるだろう。

 

つまり、身近な人を守るためにフェミニストになるべきだ、という考え方は前者の考え方においては非常に効率が悪いが、後者の考え方の場合は絶大な効果を持つことになる。

しかし、上のツイートでも言われているように、それはただの差別でしかない。男性は生まれながらにして犯罪を犯す素質があるという考え方は、男性には例外なく性加害の衝動がある、ぐらいの客観的な証拠がない限りは許容できない。

統計的に他の集団より犯罪率が高いという事実は差別を肯定しない。上のツイートにもあったが、例はいくらでもある。日本で最も犯罪率が高い市区町村(大阪市中央区らしい)出身の人は倫理教育を受けなおすべきだろうか?

 

もう少し視野を広く持って、性犯罪をできる限り減らすためにフェミニストになるべきだ、という主張はどうだろうか。個人的にはこれもあまり好きではない。

1つはあまり効果的でない。上で述べたように、目的に対して非常に遠回りだ。

もう1つは、それを言われる筋合いはない。と言えば聞こえが悪いが、例えばアフリカの子たちが飢餓に苦しんでいる、あなたはヒューマニストになるべきだと言われても???となるだろう。何かの問題が存在するとしても、参加を強制、奨励されて解決に取り組むべきではない。知らない誰かのために働け、ボランティアをしろと言われたら嫌な人も多いだろう。皆が皆他人のために尽くせるわけではない。程度の差こそあれ、嫌なことを強制されないということこそが性犯罪が悪たる根拠ではないか。

我々が絶対的にすべきことは問題解決を邪魔しないことだ。足を引っ張らないことだ。

 

過労死と同じ観点で見るべき、というのも差別前提の考え方だと思う。一般的に企業と従業員のパワーバランスはかなり企業の方が強く、時に人を殺してしまうから、力を正しく扱えという啓蒙は必要だと思う。

これを男女の問題で見ると、男女のパワーバランスは崩れているから、男性が正しい行動ができるように啓蒙する、と言うことができる。ここはなかなか難しいところではあるが、パワーバランスが崩れていることを前提に話を進めるのはかなり厳しいと思う。普通の男性は女性を病気にはできないし、自殺に追い込むこともない。差別的な考えがあるにしても、それが直接暴力につながることはあまりないだろう。ないとは言えないし数も少なくはないだろうが、それこそ活動家のフェミニストの出番だろう。一般男性の出番はない。足を引っ張らないことだけが重要だ。

それでも啓蒙する必要があると言うのなら、それは男性差別でしかないのだろう。効果の非常に薄い啓蒙をしようとは思わないだろうから、差別的な思想が根底にあるとしか言えない。

 

以上のように、女性を性犯罪から守るために男性への啓蒙が必要だ、という主張は男性差別だと考える。

わざわざ差別の応酬をし合うこともないと思うので、もう少し広い視野で、例えばヒューマニズムの観点から批判していけば十分なのではないかと思う。

 

4/1 追記:

これ好き

自力で書くよりも、ついったの素晴らしい能力の人の文章を参照する方が明確という事実がぼくを傷つけた。

結婚の意味

共働きで家事育児を男性も等しく分担する夫婦、という理想を語るツイートをよく見る気がする。もちろん直接的に述べるのではなく「私も働いて疲れているのに夫が家事をしてくれない」とか「夫の転勤についていかないといけなくて働き続けられない、何が一億総活躍だ」みたいな感じのをちょくちょく見る。というか、女性をもっと自由にしろっていう観点のがほとんどの気がする。

 

ここでふと疑問に思った。

 

経済面と生活面の両方を等しく分担している夫婦は、結婚する必要があるのか?

 

もちろん夫婦間の愛が、子どもの権利という面では結婚する必要があると思う。ただ、ここで頭に浮かぶのは同性間の結婚だった。上2つのどちらも男女間に限った話ではなく、愛も子どももないから結婚できないということもない。じゃあ現状の結婚は(少なくとも法的に)男女間にどんな意味をもたらしているんだろうか。

 

 

結婚することで発生する「義務」と「権利」にはどんなものがある? - シェアしたくなる法律相談所

 

この記事によれば、民法において婚姻がもたらす効果は以下のとおり。

 

  1. 同居、扶助義務
  2. 婚姻費用分担義務
  3. 日常家事債務の連帯責任
  4. 貞操義務
  5. 未成年の子の監護義務
  6. 財産分与請求権
  7. 相続権

 

個人的に気になったのはこのへん。

 

2. 婚姻費用分担義務

『分かりやすくいうと、収入の多い方の配偶者は、収入の低い方の配偶者よりも、夫婦共同生活から発生する費用を多く負担する義務を負っているということになります。』

3. 日常家事債務の連帯責任

『夫婦の一方が「日常の家事に関して」夫婦以外の第三者と法律行為をしたことによって負担した債務については、夫婦の他方が連帯して支払う義務を負うことになります。』

共同生活で必要になった債務もまた夫婦共同で負ってね、一方に押し付けることはできないよってことらしい。名義人が夫だから妻には請求できないよ、ってのもおかしいもんな。

6. 財産分与請求権

『結婚時というよりも離婚時に発生する権利ですが、離婚時において財産が少ない方の配偶者は、財産が多い方の配偶者に対して、その財産を分与するよう請求する権利があります。』

 

金銭面の話多いっすね・・・

 

子どもの監護義務は別に婚姻した夫婦に限った話ではなく、親権を持つ人の、って話だからあまり関係ないと思う。

 

想像したとおりだけど、このへんの規則って夫婦で収入に差がある場合の補正というか、どっちかに偏らないようにしてるんだね。収入に差がなかったら平等に負担しようね、っていうのは当たり前だし・・・

 

って思った時に、じゃあ共働きで収入が等しくて家事育児を平等にやる夫婦は結婚する意味ある?って思ってしまった。

 

思ったのは、もはやこのへんの問題は性差別の問題から抜けだしてきてるんじゃないかということ。妻の収入が社会的要因で(寿退職の強要、管理職になれないみたいな?)低いということが解消される流れの中では、家事育児の問題は夫婦間の問題、もっと言えば夫婦の価値観の問題に縮小されるのかもしれない。

性差別の問題でなくなってきているとすれば、私たちの価値観を徐々に変えていかなければいけないと思う。このあたりの問題を語るときに「男性が」ではなく「夫が」と限定して語らなくてはいけなくなる。ここ、意外と難しい問題だと思っていて、今の社会は女性差別には敏感だけど男性差別はほとんど語られない。語られないのは差別がないからか、人々に認識されていないからのどちらなのかはわからないけれど、もし後者であれば、今までの差別解消のために社会から要請されてきた固定観念を捨てなければいけない。これもまた差別解消と同じくらい難しいことじゃないかなと思う。

 

もちろん現状はまだまだ差が残っているけど、この流れが続く限りどこかでは差がなくなって、しかもそれは突然ではなくゆっくりとくるものだと思う。

そのゆっくりとした流れの中で、婚姻の意味をもう一度考えなおす時期が、遠からず来るんだろうなと思っている。

 

で、結婚の意味って何?