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今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

自衛隊違憲なのに守ってくれは無責任?

 

なるほど、言いたいことはわかる。社員に怒号を浴びせ、無理を言い通してきた社長が、辞めると言ったら君がいないとダメなんだ助けてくれ、は都合がよすぎるだろう。

 

…いや、本当にそうだろうか?

 

これが話を拗らせているのは、誰の立場で言っているのかをはっきりと示していないからだ。

よく考えなくてはいけない。これを言っているのは日本国の内閣総理大臣だ。そして内閣総理大臣には自衛隊の最高指揮監督権がある。法律により制限されるとはいえ、自衛隊に守れと命令するもしないも内閣総理大臣の権限だ。

それだけではない、内閣総理大臣はまた行政の長だ。内閣の法律案提出権は当然あるが、あくまで法律を決めるのは国会であり、国会議員の総意である。また、憲法に至っては国民の総意で決定される。

 

つまり、こうなる。

内閣総理大臣は、そもそも怒号を浴びせられている社員の側だ。社長の決めたルール(憲法)を破るな、と怒られているのに、「これも社長のためにやったことです、そんなくだらないルールは変えてください」と言っているのだ。

それもルールは絶対的である。一般的に絶対的ルールと言えば、人を殺してはいけない、と言ったところか。「人殺しもボスのためにやったことです、人を殺すななんてくだらないルールは変えてください」

 

確かに、社長のルールは正当かどうか、という疑問が出るだろう。しかしながら、憲法について言えば正当であることは定義からして明らかである。なぜならば憲法は国民が決めた政府を縛るルールだからである。

社長の命令を守るならばお前は社員でいられるのだ、という絶対的なルールである。憲法より上位にあるルールはない。一般的な倫理観でさえ、政府に対する強制力は持たない。

 

世界が荒廃して、あらゆる場所が無法地帯になったとしよう、そこである人がこう言うのである。「人殺し禁止なんてルール誰も守ってない。ボスは何も命令しないけど、俺たちは皆のためを思って自発的に他のところに食料を奪いに行ってるのに、人殺しをすると激しく怒る。ボス、こんなくだらないルール理不尽すぎる、皆がかわいそうだ」

 

どうだろうか?

ボスは「都合がいい」ことを言っているのか?無責任だろうか?

 

無責任だとしても、あくまで「皆を守ろうとしないこと」ではないのか?「部下がルールに反してやった」ことを怒るのは当然ではないか?

 

ルールはルールなのだからちゃんと守れ、と言うのも、仕方がないからルールを変えよう、と言うのも、ボスの選択次第である。

しかし、ボスの決めたルールを破って怒られているのに、ルールがいけないのだ、お前は無責任だ、と言うのは単なる逆ギレであるし、道徳的にも良しとはされないだろう。目的とルール遵守が逆転するなど日本人の十八番ではないか。

 

逆ギレなんて、そんなことが正しいわけがない。内閣総理大臣としてふさわしくない発言であるのは明らかだ。

最低時給1500円への反論に対する反論

先日Twitterでよく見た話題。

 

www.huffingtonpost.jp

これに対してTwitterでは様々な反論が繰り広げられていたのだが、まぁなかなかひどくて嫌になったので吐き出しておこう。

 

1.大前提

まず大前提として「どんなにクソな性格でクソな生活をしている人でも、生きる権利はある」。

「文化的最低限度の生活」が誰でもできる。憲法に書いてある。

したがってお前はクソだから誰も助けない、死ねってのはダメです。そのレベルだとまともな議論をする段階に達してません。

 

2.「最低賃金を2倍にすると物価も2倍になるから意味ない」

意味が分からん。根拠を示せ。物価は100%人件費で決まるってことになるし、景気がよくなると物価も賃金も上がるのであって因果関係がむちゃくちゃだ。

 

3.「時給1500円分の価値を生み出してないんだから当然だ」

これにはいくつかのルートから反論できる。

まず、そもそも非正規雇用だと基本的に賃金を支払う側の方が強いのは明らかなので、不当に搾取することはしやすいはず。ただ、正直時給1500円にしたら、例えばほとんどのコンビニはつぶれそう*1だし、搾取しすぎているというのはあまりよい回答ではなさそう。

 

では、法律に助けを求めよう。2008年施行の改正最低賃金法では、生活保護基準が最低賃金を上回っている場合には生活保護に合わせる、という(ある意味当たり前の)改正がなされているし、法律の趣旨から見ても妥当だろう。したがって、そもそも1500円分の価値を生み出しているどうかは、時給1500円にしろという主張の正当性を崩すものではない。*2

 

ていうか、そもそも働いてるのに生活保護と同じレベルか場合によっては下回ってるってどうなの?*3全く働いてない生活保護の人よりは価値生み出してるでしょ*4

 

4.「そんなことになったら企業は人を雇わなくなる」

あんたどんだけ働きたいの。

生活保護より低いんだから、雇われなくなったら生活保護受ければいい。それだけの話。そんなの俺は嫌だというなら、議論する段階に(略

 

 

 

 

てかねむい。おやすみ。

*1:ただし、潰れるのは各店舗であって、本部あたりのいい給料もらってる人はどうなるかは微妙。エリートだしね

*2:実際は地域の状況を見て決めてるから、関係なくないね。まあ原則の話だし

*3:ワーキングプアとかでググるといくらでも出てくる

*4:働いてない生活保護の人には金を出すな、っていうのは論外ですよ、念のため

法律の「正しい」条文ってどれ?

技適関連の調べものをしているときにふと思った

 

「法律の正しい条文ってどこに書いてあるの?」

 

そりゃ政府関連のウェブページ*1に書いてあるだろ、と言われればその通りなのだが、、、

 

よくよく見るとこれらのページには必ず「本システムの利用に伴って発生した不利益や問題について、何ら責任を負いません。」って書いてある。つまり、ここで読んで合法だったからやりました!!って言っても、原本が違法になってたら違法ってことだ。

 

・・・え、原本ってなに?

 

法令は天皇が署名して御璽を押印した御署名原本なるものが国立公文書館に所蔵されているらしく*2これが原本のはずである。しかし当然ながら簡単に見られるものでもなさそうだし、これの正式なコピーがあるはず。

 

・・・

 

日本の法令は一般的に官報によって公布されるのが妥当とされているので、ここを参照するのが一番よさげ。ただ、官報自体がそもそも編集されたものだし、誤植も割とあるらしい*3のでこれを完全に信じるのもどうなんだろうね?

って思ったらWikipedia先生、ちゃんとそこも書いてあって、

 官報の誤植には、掲載されている法令の効力に重大な影響を及ぼす可能性がある。1948年に起きた食糧管理法違反事件では、1947年12月30日に公示された農林省告示で、本来「いんげん」(改正前の告示におけるテボーに相当する)と記載するべきところが、農林省の原稿誤りにより、「ナタマメ」と誤記したことが問題となった。1948年4月7日に農林事務官(国の機関である農林省の事務系職員)名義で官報に正誤を掲載することとなった。・・・本件では、官報正誤による法令の効力及び官報正誤以前の法令の効力について問題とされた。

誤植 - Wikipedia

 らしい。この裁判の最終的な判決の要旨は

  公示手続上の過誤により公布された告示に誤がある場合において、その誤てあることが外部から容易に認識し得るときは、正誤の有無にかかわらず、始めから正しく解釈したところに従つて効力を有するが、外部から誤であることが容易に認識し得ないときは、正誤の時から正誤せられたところに従つて効力を有するのみである。

 つまりこう。

 

明らかに間違ってない限り、官報を(正誤も含めて)読めば完全にオッケーなんだね!!ぼくわかった!!

*4

 

完全に正確な情報というのは、思っていたより遠い。

*1:例えば、法令データ提供システム|電子政府の総合窓口e-Gov イーガブ

*2:主な公文書:国立公文書館

*3:誤植 - Wikipedia

*4:ところで、これ入手した官報1冊だけが違ってたりしたらどうするんだろうね。実際あり得ないから、起きたときに考えるのかな

「論理的」の戦い

高浜原発に関して、裁判所の運転差止の仮処分が話題になっている。私は理系の大学生であるから、Twitterを見ていると原発に過剰な批判を行う人を技術的な観点から批判する意見を多く見る。私はその主張の多くは科学的に正しいと感じるし、原発自体に危険性があるとはあまり思わない。

しかしながら、そのような主張の多くは福島第一原発の事故に至るまでの原子力そのものの歴史や、事故がもたらした結果を過小に見過ぎているように感じる。この部分を正当(多少過剰な気はするが)に評価した結果が今回の差し止めなのではないかと思う。

まず、福島第一原発の事故までの歴史を考えたい。いわゆる原発の「安全神話」に代表されるように、原子力そのものがもたらすリスクは小さくないにも関わらず、政府や原子力事業者は極力小さく見せようとしてきた。電力需要やコスト、様々な要因があるにしてもそのように主張してきたことは事実である。
この主張をずっと続けてきた果てに住民の大規模な避難、大きな風評被害を伴う事故が発生したわけである。事故は原子力の負のメリットを一気に露呈してしまった。夢のエネルギーが一気に負の要素をばら撒き始めたのだから、信用がなくなるどころの話ではない。
ここで重要なのは絶対的な安全性とかいう話ではなく、言うならば長年付き合ってきた友人が殺人で逮捕されてしまったとか、そういう話である。そんな状況で友人関係を続けられる人がどれだけいるだろうか。もちろん友人の性格が変わったわけでもないし、社会復帰の可能性は十分にあると思う。友人が「もう2度と殺人はしない」と言ったとして、信じられる人がどれだけいるだろうか。
技術的に見ればそういう考え方は明らかに間違っているが、人間が判断する時というのは信用というものが大きく関わるし、関わることが間違っているわけではない。
「技術的安全性」「信頼関係」のどちらを基準とするか、そしてそのどちらを判断基準としても論理性は保持されるだろう。

次に原発の稼働により得られるものと侵されるものの違いである。
事故を考慮しない場合、原発の稼動で得られるメリットは非常に多い。電気の価格、安定供給であるとか、二酸化炭素排出の抑制であるとかである。
一方事故を考慮した場合、事故発生時に侵されるものは人命であるとか、資産を保持する権利のようなものである。風評被害も他人の利益を大きく損なう。
ここで重要なのは、事故発生時に侵されるものは国民の基本的な権利として認められているものが非常に多い点である。これがなければそもそも国が成り立たないので、重要度は非常に高い。一方メリットとして得られる点は電気代の安さとか企業の利益である。しかしながらこれらは人権に関わる部分や資産を侵すことが許されるほど重要な権利とは(少なくとも建前上は)見なされていない。したがってデメリットが優先されるのは当然のことと言える。

これらの理由から、どのような結果を導くことができるだろうか。
問題になるのはデメリットが発生する確率を多く見積もる場合である。デメリットが発生する確率というのはある程度科学的論理性をもって判断することができることになっている。ところが原発に関しては災害という未知のリスクファクターが大きく影響する。災害といういわば確率でしか判断できない事項を専門家でない人が、しかも白黒はっきり判断しなければならないとすれば、信用の観点から判断せざるを得ないのではないだろうか。ここで原発関係者を「専門家」と見るか「事故の責任者」と見るかで評価は大きく変わる。
結果として原発の運営母体に対する評価が再稼動の判断を左右しているのである。「専門家」として見ていれば「数十年安全性を保ってきた技術を無視するのは、原発の稼働差止は科学的根拠に基づいていない」となるし、「事故の責任者」としてみれば「事故を起こしてしまった人を全面的に信用は出来ないから、少しでも不安要素があれば止めざるを得ない」となる。
後者は論理的ではないのだろうか?殺人者と友人関係を切った人は論理的ではないのか?

結局は立場の違いから観点を変えざるを得ないのである。そして、国を維持するという観点から見れば「信頼」を重視するしかないのである。だから科学的根拠に基づいていないと原発反対論者を批判するのはある意味筋違いであるし、前提条件を無視しているように思う。

追記:
もっとも、信用云々以前に災害時に耐えられるかどうかは技術的にも割と怪しい気もするよね、災害の起きる確率が低いから無視されるだけで。技術的な安全性の話は他の専門家の意見を聞くしかないから判断できないけど

登山という「危険な行為」と自己責任

今日Twitterを見ているとこんな記事が流れてきた。

www.yomiuri.co.jp

事故については不幸なことであったし、危険を冒して救助に挑まれた隊員の方々の苦労と勇気に敬意を表したいと思う。

 

気になったのは、同時に流れてきたある人の意見である。いわく、

「これで次から救助されなくなったよ、登山家さん残念だね」

「わざわざ危険な行為をして死にかけた人を、危険を冒してまで助けに行ったのに訴訟なんてしたらこうなるに決まっている」

というものである。

 

確かに危険を冒して救助するというのは大変なことであるし、結果として登山者が亡くなったことに対し賠償を求めるというのは恩に仇を返すような行動に見えることも理解できる。

 

しかしながら、別の記事を見てみると

mainichi.jp

『報告書で、つり上げ用具がすり抜けた要因として「男性が負傷の痛みで姿勢を変えようとした」など三つを挙げたが特定しなかった。遺族は示談で市に賠償を求めたが、市は過失を否定したという。』

とある。

気がかりなのは『登山という「危険な行為」の結果なのだから何があっても仕方ない』という見方である。

 

登山する前提として、万が一不幸なことがあっても仕方ない、山には危険が多いのだからという登山者の心構えは必要である。実際そのような認識で登山を趣味としている人は多いと思う。

しかしながら、その認識を登山をしない人たちから押し付けるのは間違っているように思えてならない。「危険な行為をしている人は自己責任でやっているのだから、つべこべ言う権利はない」「危険な行為の結果に他人を巻き込むな」という考えである。「もし救助隊に過失があっても、助けてくれた相手に対して争うべきではない」という考えである。

危険な行為をした人の命や権利は尊重する必要がないという考え方に恐ろしさを感じるのである。

 

結果としては訴訟は他の登山者にとって不利益を生んだわけで、正しい行動であったかは私自身疑問に感じているのだが、登山者が死亡した直接の原因は救助中に起こった事故であり過失の有無を争うことは一種の権利であると思う。

危険な行為というのはその権利すら相殺すると考えられているのだろうか。この考え方は大きな問題を含んでいるように感じる。

 

この考え方に対して、少し検討したいのは「登山はなぜ危険なのか」という点である。

山岳遭難発生状況(平成26年中)/長野県警察

この資料によると、遭難原因の上位4つは「転・滑落(36.8%)」「転倒(22.1%)」「疲労凍死傷(12.5%)」「道迷い(11.4%)」である。次に「病気」「落石」が続く。

転落・滑落・転倒は登山中に足元の不注意によって起こるものである。疲労・道迷いに関していえば登山者の体力不足・準備不足が主な原因として挙げられる。

この資料をもとに言えるのは「登山者の認識の甘さにによる遭難は全体の24%ほどに過ぎない」ということである。もちろん転落など足元を常に注視していれば防げる事故ではあるが、多くの登山者がいれば足元の不注意による事故はそれなりの回数が起こり得ることではないだろうか。

また冬山に関して言えば、そもそも計画する段階で相応の装備・準備が必要であるし、難度もぐっと上がる。したがって準備不足により起こるような事故はさらに少ないだろう*1

 

これらを踏まえて言えば、山岳遭難で起こりうる事故の半数以上はやむを得ない事故であり、予測が難しい事象である。自己責任と言い切るには、また「危険な行為」と言い切るにはいささか小さすぎる過失ではないだろうか。

 

繰り返すが、登山者は自己責任の原則を持って登山をし、万が一の事態でも他人に頼り、また他人に責任を押し付けるなどの行為はすべきではないと思うし、それを受け入れられる人のみが登山を楽しむべきであると思う。

しかしながら一方で自己責任の原則を登山者に押し付け、助かるはずの命を見捨てても構わないという考え方は間違っているのではないだろうか。また「危険な行為」をしたことをあらゆる権利を放棄したかのように見ることは、決していい結果を生まないと感じる。そしてこのような考え方が、もっと大きな、より多くの人が不利益を被るような「自己責任論」に発展してしまうことは起こってほしくない。

 

*1:ただし、これに関しては資料を見つけることができなかった

回路とプログラム

 じゃがいもです。

 

 某コンテストに出場するため、計器類のシステム(おおげさ)を製作するというある意味とても貴重な経験を現在進行形でしています。

 

 中学の時にゲームを作りたいと思いC言語を学び、高校の時に理科部で製作していた掃除機のモータを使ったホバークラフトをPCから制御したい、というなんとも無茶なことから初めて(結局両方完成せず)、そこからは成長する人格と同じくらいの歩みで自分の技術も進歩してきた気がします。

 

 それを全部ひっくるめて人様に見せられるものにしろ、という案件ですから何とも厳しいものです。ピンチはチャンスという先人の言葉がありますがまさにその通りだと思います。実際は先人ほど切羽詰まってないはずなんですが、なぜか苦しいんですね、なんででしょうね。

 

 しかし、自分が作ったものが完成するビジョンが見えないのも確かで、完璧なものを作るのは不可能と分かっていながら脳内では完璧なものを目指すわけです。そのギャップを埋める技術というものをまだ持ち合わせていないようです。

 ものを作って完成させた経験を持つ人が周りにたくさんいる環境に生きてるはずなのになぜ、と この文章を書いていて気づきました。なんなんだ。

 

 前述の計器類は回路がほとんど仕上がっていて、今後はそれを結合して動作させるプログラムを書いて、動作確認して、という感じです。完成とは何なのか、ひとまずの完成像を追い求める3週間です。ヤバい。

 完成したら一通り使った技術(おおげさ)とかポツポツ書けたらなと思ってます。

 それにしてもハードとソフト両方やるのってハード…

限界

いもです。ちょっと「自分の限界」についてメモがきします。

 

「自分の限界を見極める」って大事だと思います。「限界」まで頑張って成功したときの喜びは大きい、みたいなのをたまに聞きます。

でも「限界」ってなんだろうって考えると意外に明白な答えが出てきません。

 

1つの目安として、万策尽きる状態までひたすら進み続けて力尽きればそれは「限界」でしょう。しかし、力尽きるというのは普通の人が容易にしてよいことではありません。力尽きては自分から助けを求めることができないからです。

 

ここで考えなくてはいけないのは「力尽きる『限界』」と「自分ができる『限界』」があるということです。前述した「自分の限界を見極める」で求められている「限界」は後者です。自分のできる範囲を見極め適度な頑張りをする。

ところが、後者の意味の「限界」は他人が見極めるのは非常に難しいです。「自分ができる『限界』」の判断は個人の価値観に依存するからです。

この2つを区別せずに苦しんでる人って結構いるんじゃないかな、となんとなく思います。本人は「自分ができる『限界』」だと言っていても、他人から見ればまだまだのように見えるかもしれません。その様子を見ているのはじれったく、「もっと頑張れ」と言ってしまいたくなります。

でも人間は常に「自分ができる『限界』」に挑み続けられる強い人ばかりではありません。また、力尽きてよいのは自分の意志に基づいて行動しているときだけです。力尽きても誰も助けてくれないからです。

 

自分はというと、人に「限界」まで頑張ることを強制してくないな、とずっと思っています。できなければそれは自分のせいです。自分の力不足です。それだけです。それだけのために人にそこまで強制できないです。

結局は、誰かに半強制されて「力尽きる『限界』」に達してしまうことは極力避けていくのが必要だと思います。理想が高い世界では特に。大人になってからだと"安全に"力尽きるのは難しいですから…