今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

うんこリプ

Twitter論説委員の方々、何が言いたいのかさっぱりわからないことを言ってRTしまくるので、非常にイライラする。私はクソ人間なので、ネット上でぶっ叩いてイライラを解消したい。

 

 

ここらへんの核兵器禁止条約に日本が批准しない話。

なぜか政府の言うことをそのまま受け取って、批准しない方が核兵器禁止に近いのだ、なんて言い分を支持している。

そんなのは、核の傘に守られている国々がゴネまくるからでしかなく、核の傘に入っていない国からすればゴネてる国の一つにしか見えないだろう。ゴネて言い訳を無理やりくっつける政府の言い分をわざわざ報道する必要はないと思うのだが…

 

 

インドとパキスタンって核兵器バシバシ打ち合えるほど強くないし、隣国で発射から着弾までの猶予がないってなると偶発核戦争のリスクが高まりすぎるし、一般的な平和のための核兵器って構図は成り立たないはずなんだよなぁ…

交渉材料程度にしかならない割にリスクが大きすぎるのでやめてくれ、褒めるのもやめてくれ。見栄の張り合いを正当化しないでくれ。

 

相互確証破壊 - Wikipedia

 

 

震災当時の苦労には頭が下ががるのだが、原発なしで電気が足りるかどうかと震災で石油大輸送が大変だったのは全く関係がないのでクソリプの類…

相手のアカウントもなんか日本語怪しいのでうんこの投げ合いにしかなってないのが救い。

 

そ、そう…

 

 

高須院長って良識あってのあの行動だと初めは思ってたんだけど、国会議員の国会での発言に対する賠償請求とか特攻美化とかでただのヤバい金持ちだって気づいた、気持ち悪い。

隊員の人の話とか成果とかそこらの文献を漁れば、人の感じ方の違いを考慮したとしても美化するには厳しすぎるのは明らか。それを無視するのは危険で建設性マイナスなのでやめてほしい。

 

このやり方ってまずいんじゃないの?ってツイを見かけた。たぶん積極的に損害を与えるように見えるからだろうけど、インフラ系は社会的な責任もあるので止めるのはよくないし、労働者の権利を軽視するわけにもいかんので認めてくれ。ストライキは1か0かにしろとかみんなが不幸になるだけなので…

合理的と平等・差別・人権

航空機に搭乗する際にうんちゃら(書くのめんどいのでリンク)が今アツい。

バニラ・エアが燃えている。しかし、木島さんも燃えている – アゴラ

 

Twitterを見ていると「航空会社に事前に連絡しなかったせいだ、準備ができなかっただけだ」とか、あるいは「この人はもともと障害者支援団体のプロだ、相手の準備ができていないのを分かっていたのだ、これはパフォーマンスだ」とかいう意見が流れてくる。
実際のところは、まず前者ならそもそも設備がなく断られていたらしいので乗客の行動のほうが正解らしい。
後者については、上にリンクを貼ったページの情報が正しければ、行きは乗れたが帰りは危ないから乗るなと言われたことになるが、実質的に置き去りになってしまうというのはどう考えてもおかしいだろう。
間違えてはいけないのは、航空会社側の補助ができない理由自体は安全面の配慮から正しい。別に職員の対応が悪いというわけではない。ただ設備が整っていないのがいけない。

 

この手の話の時になんか前提が欠けてるよなぁ、と思うので書いておく。

 

合理的だからと言って何もしなくていいはずがない

車椅子用の設備を用意しないのは、航空会社にとってみれば明らかに合理的である。なぜならば車椅子の方は圧倒的少数であり、追加料金を払うわけでもないので、費やした費用は回収できない。

それでも、車椅子だからと飛行機に乗れないと言うのは不公平である。当たり前だ。これから飛行機に乗ろうとする健常者が航空券を取る以外に何をするというのか。

これに対して「特別の配慮が必要であるのだから、事前に連絡すべきだった」という意見がある。しかし普通に考えて車椅子の方の対応に事前の準備が必要だろうか。乗降用機器を買いに行く時間だろうか。

 

一面を見た時に合理的であっても、その裏に大きな非合理的なことがあれば、そちらが優先されるべきである。

 

権利の主張は正当な行為のみでなされるべきか

「パフォーマンスである」という面についての話である。ここでいう「正当な」とは一般的には「世間様に迷惑をかけない」という意味である。確かにこのような立場の方なら、パフォーマンスのために行ったと思われるのも仕方がない。

しかし、パフォーマンスをしに行ってはいけないのだろうか。

もしパフォーマンスではなく正当にいくならば、航空会社にすぐさま乗降用機器を購入するようにお願いするのがいいだろう。

そんなことですぐさま変わるだろうか?

直接お願いするだけで全てが変わるなら法律で縛る必要などないはずだ。そもそも正当な主張とは何か。それは多数派の決めたルールではないだろうか。

 

一般的に弱者が主張をするとき、世間が正当と認める手段である必要はない。なぜならばその主張は正当な手段を経た後のものである可能性も高いからだ。また、そもそも正当な手段を世間が用意していない場合だってある。

 

この論理は、しかしながらテロなど暴力的な行為も自己正当化できる。これが許されるかどうかはその主張によって弱者が得られる利益と比較するしかないだろう。

人を虐殺してくる政府に対してテロで対抗することはある種正当だろう。しかし車椅子の対応をして欲しいからと言ってハイジャックはやりすぎだ。今回のケースなら航空会社の評判を落とすという手段だが、許容される範囲ではないだろうか。

 

 

必要な前提はこんなところだと思う。後者の話は差別全般の文脈で出る話なので、調べればいくらでも、そこらの凡人なんかより優れた人たちが緻密に考察し、発表している。

そういう緻密な考察から得た結果をスタート地点として考えるほうがいい議論になるのではないだろうか。

法律の何に反対するのか?

最近に限ったことではないと思うのだが、憲法だ法律だと騒がしい。最近なら集団的自衛権だとか、共謀罪だとか、さらには憲法改正だとか。

 

ここらの話に必ず伴ってくるのが「ここを変えると国はこんな悪いことができるようになる、絶対反対だ」、あるいは「いやそんなことはない、なぜお前は世のためになる案に反対するのだ」…しまいには「世の中を思って言っているのに、それにも反対するなんて何か後ろめたいことがあるに違いない」…

 

さすがに最後の言い方は暴論だと思うが*1、前2つはおそらくどちらも論理的な思考の結果として得られる。

 

ただし、論理的な思考の前提条件が全くもって異なっているだけの話である。

 

1. 「権力は常に刃物を持った殺人鬼である」

これは権力は必ず腐敗するという(歴史的な)事実に則り、権力はいつでも我々を脅し従属させようとし、殺すこともいとわないのだ、そういう性質なのだという考え方である。現に国民主権三権分立など、近代国家は必ずこれを前提として成り立っているように思う。

彼らが刃物を持っているなら、我々も相応の武器を持ち屈服させ、うまく利用してやろうということである。もちろん権力は絶大な利用価値を持つので、殺してしまうわけにもいかない。

これを例えば共謀罪の反対意見に当てはめると「刃物を持った殺人鬼にさらに刃物を渡すのか、そんなこと許せるはずがない」となる。ごもっともである。殺人鬼に少しでも武器になりそうなものを渡すべきではない。

 

2. 「権力は通常では優しいが、時に殺人鬼と化すこともある」

一見よさそうに見えたヒトラーが、いきなり本性を表して国民を弾圧した、我々は騙されたということも起こりうる、という考え方である。もちろんヒトラーである必要はなく、また国家全体で動く必要はない。例えば警察であるとか、普段は優しいけども悪いトップが組織を動かし始めたら危ない、という話である。

正直なところ、この前提に基づいた意見はほとんど見ない。なぜなら法律をその時々の権力に対して変えることはできないからである。ある首相が共謀罪の法案を成立させたとして、その次の首相が、共謀罪で人権を全力で侵害してくる人でも、その法律を即座に無効にする術はないからである。

 

3. 「権力は常に優しい、我々がコントロールできているからだ」

これは非常に簡単な話で、権力は暴走することがない、暴走したら辞めさせられるからだ、したがってどんな法律があっても正しく使うことしかできないのだから何でもいい、という考え方である。

したがって現状で法律がネックになり世の中をよくできないのならば、それを解消してやろうとなる。世の中をよくしようとしてやってるのになぜ反対するのか、という言葉はここから出てくる。

 

ここまで書いてきたが、要するに重要なのは権力を信用するかしないかである。

個人的な考えを言えば、共謀罪に関しては正当性を担保する絶対的な根拠が今のところ見受けられず、国連の報告者の指摘に対して根拠を示しての反論がないところを見るに行動に信用できる点がない。信用する点がない以上、権力の根本的性質から殺人者である可能性は否定できず、刃物を渡してもよい理由が見当たらないのである。

異なる意見に耳を傾けることは言うまでもなく重要ではあるのだが、それ以上に相手の立場に立ってその根拠を見つける、ということが求められると思う。

このような事例で根底から前提条件が違うのならば、条件としてより適切なものはどれかを考えなくてはならない。条件の判断基準としては、権力の普段の行動であるとか、もともとそれ自体が抱えている性質があると思う。それらを適切に組み合わせてこそ正しい回答が得られるのではないか。

*1:この「いいことをしようとしているのに、反対するなんて何か後ろめたいことがあるに違いない」という論理は、現実的には往々にして正しい気はするとはいえ、正義のためなら何でも許されるという結論を容易に導いてしまう。正義の反対は別の正義である。

自衛隊違憲なのに守ってくれは無責任?

 

なるほど、言いたいことはわかる。社員に怒号を浴びせ、無理を言い通してきた社長が、辞めると言ったら君がいないとダメなんだ助けてくれ、は都合がよすぎるだろう。

 

…いや、本当にそうだろうか?

 

これが話を拗らせているのは、誰の立場で言っているのかをはっきりと示していないからだ。

よく考えなくてはいけない。これを言っているのは日本国の内閣総理大臣だ。そして内閣総理大臣には自衛隊の最高指揮監督権がある。法律により制限されるとはいえ、自衛隊に守れと命令するもしないも内閣総理大臣の権限だ。

それだけではない、内閣総理大臣はまた行政の長だ。内閣の法律案提出権は当然あるが、あくまで法律を決めるのは国会であり、国会議員の総意である。また、憲法に至っては国民の総意で決定される。

 

つまり、こうなる。

内閣総理大臣は、そもそも怒号を浴びせられている社員の側だ。社長の決めたルール(憲法)を破るな、と怒られているのに、「これも社長のためにやったことです、そんなくだらないルールは変えてください」と言っているのだ。

それもルールは絶対的である。一般的に絶対的ルールと言えば、人を殺してはいけない、と言ったところか。「人殺しもボスのためにやったことです、人を殺すななんてくだらないルールは変えてください」

 

確かに、社長のルールは正当かどうか、という疑問が出るだろう。しかしながら、憲法について言えば正当であることは定義からして明らかである。なぜならば憲法は国民が決めた政府を縛るルールだからである。

社長の命令を守るならばお前は社員でいられるのだ、という絶対的なルールである。憲法より上位にあるルールはない。一般的な倫理観でさえ、政府に対する強制力は持たない。

 

世界が荒廃して、あらゆる場所が無法地帯になったとしよう、そこである人がこう言うのである。「人殺し禁止なんてルール誰も守ってない。ボスは何も命令しないけど、俺たちは皆のためを思って自発的に他のところに食料を奪いに行ってるのに、人殺しをすると激しく怒る。ボス、こんなくだらないルール理不尽すぎる、皆がかわいそうだ」

 

どうだろうか?

ボスは「都合がいい」ことを言っているのか?無責任だろうか?

 

無責任だとしても、あくまで「皆を守ろうとしないこと」ではないのか?「部下がルールに反してやった」ことを怒るのは当然ではないか?

 

ルールはルールなのだからちゃんと守れ、と言うのも、仕方がないからルールを変えよう、と言うのも、ボスの選択次第である。

しかし、ボスの決めたルールを破って怒られているのに、ルールがいけないのだ、お前は無責任だ、と言うのは単なる逆ギレであるし、道徳的にも良しとはされないだろう。目的とルール遵守が逆転するなど日本人の十八番ではないか。

 

逆ギレなんて、そんなことが正しいわけがない。内閣総理大臣としてふさわしくない発言であるのは明らかだ。

最低時給1500円への反論に対する反論

先日Twitterでよく見た話題。

 

www.huffingtonpost.jp

これに対してTwitterでは様々な反論が繰り広げられていたのだが、まぁなかなかひどくて嫌になったので吐き出しておこう。

 

1.大前提

まず大前提として「どんなにクソな性格でクソな生活をしている人でも、生きる権利はある」。

「文化的最低限度の生活」が誰でもできる。憲法に書いてある。

したがってお前はクソだから誰も助けない、死ねってのはダメです。そのレベルだとまともな議論をする段階に達してません。

 

2.「最低賃金を2倍にすると物価も2倍になるから意味ない」

意味が分からん。根拠を示せ。物価は100%人件費で決まるってことになるし、景気がよくなると物価も賃金も上がるのであって因果関係がむちゃくちゃだ。

 

3.「時給1500円分の価値を生み出してないんだから当然だ」

これにはいくつかのルートから反論できる。

まず、そもそも非正規雇用だと基本的に賃金を支払う側の方が強いのは明らかなので、不当に搾取することはしやすいはず。ただ、正直時給1500円にしたら、例えばほとんどのコンビニはつぶれそう*1だし、搾取しすぎているというのはあまりよい回答ではなさそう。

 

では、法律に助けを求めよう。2008年施行の改正最低賃金法では、生活保護基準が最低賃金を上回っている場合には生活保護に合わせる、という(ある意味当たり前の)改正がなされているし、法律の趣旨から見ても妥当だろう。したがって、そもそも1500円分の価値を生み出しているどうかは、時給1500円にしろという主張の正当性を崩すものではない。*2

 

ていうか、そもそも働いてるのに生活保護と同じレベルか場合によっては下回ってるってどうなの?*3全く働いてない生活保護の人よりは価値生み出してるでしょ*4

 

4.「そんなことになったら企業は人を雇わなくなる」

あんたどんだけ働きたいの。

生活保護より低いんだから、雇われなくなったら生活保護受ければいい。それだけの話。そんなの俺は嫌だというなら、議論する段階に(略

 

 

 

 

てかねむい。おやすみ。

*1:ただし、潰れるのは各店舗であって、本部あたりのいい給料もらってる人はどうなるかは微妙。エリートだしね

*2:実際は地域の状況を見て決めてるから、関係なくないね。まあ原則の話だし

*3:ワーキングプアとかでググるといくらでも出てくる

*4:働いてない生活保護の人には金を出すな、っていうのは論外ですよ、念のため

法律の「正しい」条文ってどれ?

技適関連の調べものをしているときにふと思った

 

「法律の正しい条文ってどこに書いてあるの?」

 

そりゃ政府関連のウェブページ*1に書いてあるだろ、と言われればその通りなのだが、、、

 

よくよく見るとこれらのページには必ず「本システムの利用に伴って発生した不利益や問題について、何ら責任を負いません。」って書いてある。つまり、ここで読んで合法だったからやりました!!って言っても、原本が違法になってたら違法ってことだ。

 

・・・え、原本ってなに?

 

法令は天皇が署名して御璽を押印した御署名原本なるものが国立公文書館に所蔵されているらしく*2これが原本のはずである。しかし当然ながら簡単に見られるものでもなさそうだし、これの正式なコピーがあるはず。

 

・・・

 

日本の法令は一般的に官報によって公布されるのが妥当とされているので、ここを参照するのが一番よさげ。ただ、官報自体がそもそも編集されたものだし、誤植も割とあるらしい*3のでこれを完全に信じるのもどうなんだろうね?

って思ったらWikipedia先生、ちゃんとそこも書いてあって、

 官報の誤植には、掲載されている法令の効力に重大な影響を及ぼす可能性がある。1948年に起きた食糧管理法違反事件では、1947年12月30日に公示された農林省告示で、本来「いんげん」(改正前の告示におけるテボーに相当する)と記載するべきところが、農林省の原稿誤りにより、「ナタマメ」と誤記したことが問題となった。1948年4月7日に農林事務官(国の機関である農林省の事務系職員)名義で官報に正誤を掲載することとなった。・・・本件では、官報正誤による法令の効力及び官報正誤以前の法令の効力について問題とされた。

誤植 - Wikipedia

 らしい。この裁判の最終的な判決の要旨は

  公示手続上の過誤により公布された告示に誤がある場合において、その誤てあることが外部から容易に認識し得るときは、正誤の有無にかかわらず、始めから正しく解釈したところに従つて効力を有するが、外部から誤であることが容易に認識し得ないときは、正誤の時から正誤せられたところに従つて効力を有するのみである。

 つまりこう。

 

明らかに間違ってない限り、官報を(正誤も含めて)読めば完全にオッケーなんだね!!ぼくわかった!!

*4

 

完全に正確な情報というのは、思っていたより遠い。

*1:例えば、法令データ提供システム|電子政府の総合窓口e-Gov イーガブ

*2:主な公文書:国立公文書館

*3:誤植 - Wikipedia

*4:ところで、これ入手した官報1冊だけが違ってたりしたらどうするんだろうね。実際あり得ないから、起きたときに考えるのかな

「論理的」の戦い

高浜原発に関して、裁判所の運転差止の仮処分が話題になっている。私は理系の大学生であるから、Twitterを見ていると原発に過剰な批判を行う人を技術的な観点から批判する意見を多く見る。私はその主張の多くは科学的に正しいと感じるし、原発自体に危険性があるとはあまり思わない。

しかしながら、そのような主張の多くは福島第一原発の事故に至るまでの原子力そのものの歴史や、事故がもたらした結果を過小に見過ぎているように感じる。この部分を正当(多少過剰な気はするが)に評価した結果が今回の差し止めなのではないかと思う。

まず、福島第一原発の事故までの歴史を考えたい。いわゆる原発の「安全神話」に代表されるように、原子力そのものがもたらすリスクは小さくないにも関わらず、政府や原子力事業者は極力小さく見せようとしてきた。電力需要やコスト、様々な要因があるにしてもそのように主張してきたことは事実である。
この主張をずっと続けてきた果てに住民の大規模な避難、大きな風評被害を伴う事故が発生したわけである。事故は原子力の負のメリットを一気に露呈してしまった。夢のエネルギーが一気に負の要素をばら撒き始めたのだから、信用がなくなるどころの話ではない。
ここで重要なのは絶対的な安全性とかいう話ではなく、言うならば長年付き合ってきた友人が殺人で逮捕されてしまったとか、そういう話である。そんな状況で友人関係を続けられる人がどれだけいるだろうか。もちろん友人の性格が変わったわけでもないし、社会復帰の可能性は十分にあると思う。友人が「もう2度と殺人はしない」と言ったとして、信じられる人がどれだけいるだろうか。
技術的に見ればそういう考え方は明らかに間違っているが、人間が判断する時というのは信用というものが大きく関わるし、関わることが間違っているわけではない。
「技術的安全性」「信頼関係」のどちらを基準とするか、そしてそのどちらを判断基準としても論理性は保持されるだろう。

次に原発の稼働により得られるものと侵されるものの違いである。
事故を考慮しない場合、原発の稼動で得られるメリットは非常に多い。電気の価格、安定供給であるとか、二酸化炭素排出の抑制であるとかである。
一方事故を考慮した場合、事故発生時に侵されるものは人命であるとか、資産を保持する権利のようなものである。風評被害も他人の利益を大きく損なう。
ここで重要なのは、事故発生時に侵されるものは国民の基本的な権利として認められているものが非常に多い点である。これがなければそもそも国が成り立たないので、重要度は非常に高い。一方メリットとして得られる点は電気代の安さとか企業の利益である。しかしながらこれらは人権に関わる部分や資産を侵すことが許されるほど重要な権利とは(少なくとも建前上は)見なされていない。したがってデメリットが優先されるのは当然のことと言える。

これらの理由から、どのような結果を導くことができるだろうか。
問題になるのはデメリットが発生する確率を多く見積もる場合である。デメリットが発生する確率というのはある程度科学的論理性をもって判断することができることになっている。ところが原発に関しては災害という未知のリスクファクターが大きく影響する。災害といういわば確率でしか判断できない事項を専門家でない人が、しかも白黒はっきり判断しなければならないとすれば、信用の観点から判断せざるを得ないのではないだろうか。ここで原発関係者を「専門家」と見るか「事故の責任者」と見るかで評価は大きく変わる。
結果として原発の運営母体に対する評価が再稼動の判断を左右しているのである。「専門家」として見ていれば「数十年安全性を保ってきた技術を無視するのは、原発の稼働差止は科学的根拠に基づいていない」となるし、「事故の責任者」としてみれば「事故を起こしてしまった人を全面的に信用は出来ないから、少しでも不安要素があれば止めざるを得ない」となる。
後者は論理的ではないのだろうか?殺人者と友人関係を切った人は論理的ではないのか?

結局は立場の違いから観点を変えざるを得ないのである。そして、国を維持するという観点から見れば「信頼」を重視するしかないのである。だから科学的根拠に基づいていないと原発反対論者を批判するのはある意味筋違いであるし、前提条件を無視しているように思う。

追記:
もっとも、信用云々以前に災害時に耐えられるかどうかは技術的にも割と怪しい気もするよね、災害の起きる確率が低いから無視されるだけで。技術的な安全性の話は他の専門家の意見を聞くしかないから判断できないけど