今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

インターネットフェミニストが求めているのは何か?

 

これを書いた後、考え続けてたこと。彼(女)らが言っていることから主張をまとめると、違和感があるのはなぜだろうか。

 

 

人格に限らず、人の能力と性別は関係しないことはフェミニストの大前提だと思っていたのだが、そうでもないらしい。

 

じゃあ結局この人たちの主張の根本は何だろうか。男女の能力に差がある(どちらが優れているかは問わない)のだ、という主張をする場合の目的は何だろうか。正直全くわからない。

「女性は男性より人格が優れているから、社会はもっと女性を求めるべきだ」? 意味不明だ。

具体的な目標がない選民思想に近いのだろうか。これが一番しっくりくるな。

 

彼らの思想は何なのか、手がかりが欲しい。

男性は生きているだけで女性より人格が劣るのであって、勉強が欠かせないという。人格が劣っているからこそ男性は女性に迷惑をかけるのだ、という思想だから、必然的に男性に対して「人格レベルを上げるための勉強」を求めているわけだ。

 

 

「全ての男性を悪者にしたいわけではない」けれども「多くの男性は女性差別意識に気づいていない」「気づきを与えることが必要」って感じか。難しい概念ですね。

 

一方でこう言う人もいる。割とよく言われる話ではあるけど。

 

これはわかりやすくまとまっていていい。日本にはまだまだ女性に加害する男がたくさんいるから、正しい意思を持つ男が積極的に動いて女性を守るべきだ、ということらしい。

 

 

男性はフェミニストにならなくてはいけない?

 

https://mobile.twitter.com/b_ksou

 

誰しも学校で1度は違法薬物の授業受けたことがあると思うんだけど、どう思いましたか?

ぼくは時間の無駄だと思いました。なぜならぼくは薬物をやりたいと思わないからです。

ましてや友人を薬物から守るために反対をしよう、君は何かアクションを起こすべきだ、とか言われたらおかしくないですか?

 

確かに女性が性被害に遭わない権利はある。加害者は男性がほとんどだ。だからといって男性の価値観こそが原因だって言われても困る。そして社会に蔓延したその価値観を正すためにフェミニストになるべきだ、って言われても、知らんがな、めんどくせえこと押し付けんなって思うのは普通で悪いことではないと思う。

 

加害者と男性が区別できていない、っていうのはそうだと思っている。

男性という枠を犯罪対策の対象にするのは広すぎる。日本人の半数は男性だ。犯罪対策のためには日本人の半数の意識を変えることが重要だ、と言っているのである。より効果的で枠を絞り込める対策が他にあるはずだ。

一方で加害者と男性を区別できていなければ、男性に対して啓蒙しろというのは実に効果的な案である。男性は力があり性的衝動が強いがゆえに、誰しもが加害者になりえると言うならば、加害者予備軍はまさに男性という枠そのものであり過不足がなく、啓蒙は大きな効果を上げるだろう。

 

つまり、身近な人を守るためにフェミニストになるべきだ、という考え方は前者の考え方においては非常に効率が悪いが、後者の考え方の場合は絶大な効果を持つことになる。

しかし、上のツイートでも言われているように、それはただの差別でしかない。男性は生まれながらにして犯罪を犯す素質があるという考え方は、男性には例外なく性加害の衝動がある、ぐらいの客観的な証拠がない限りは許容できない。

統計的に他の集団より犯罪率が高いという事実は差別を肯定しない。上のツイートにもあったが、例はいくらでもある。日本で最も犯罪率が高い市区町村(大阪市中央区らしい)出身の人は倫理教育を受けなおすべきだろうか?

 

もう少し視野を広く持って、性犯罪をできる限り減らすためにフェミニストになるべきだ、という主張はどうだろうか。個人的にはこれもあまり好きではない。

1つはあまり効果的でない。上で述べたように、目的に対して非常に遠回りだ。

もう1つは、それを言われる筋合いはない。と言えば聞こえが悪いが、例えばアフリカの子たちが飢餓に苦しんでいる、あなたはヒューマニストになるべきだと言われても???となるだろう。何かの問題が存在するとしても、参加を強制、奨励されて解決に取り組むべきではない。知らない誰かのために働け、ボランティアをしろと言われたら嫌な人も多いだろう。皆が皆他人のために尽くせるわけではない。程度の差こそあれ、嫌なことを強制されないということこそが性犯罪が悪たる根拠ではないか。

我々が絶対的にすべきことは問題解決を邪魔しないことだ。足を引っ張らないことだ。

 

過労死と同じ観点で見るべき、というのも差別前提の考え方だと思う。一般的に企業と従業員のパワーバランスはかなり企業の方が強く、時に人を殺してしまうから、力を正しく扱えという啓蒙は必要だと思う。

これを男女の問題で見ると、男女のパワーバランスは崩れているから、男性が正しい行動ができるように啓蒙する、と言うことができる。ここはなかなか難しいところではあるが、パワーバランスが崩れていることを前提に話を進めるのはかなり厳しいと思う。普通の男性は女性を病気にはできないし、自殺に追い込むこともない。差別的な考えがあるにしても、それが直接暴力につながることはあまりないだろう。ないとは言えないし数も少なくはないだろうが、それこそ活動家のフェミニストの出番だろう。一般男性の出番はない。足を引っ張らないことだけが重要だ。

それでも啓蒙する必要があると言うのなら、それは男性差別でしかないのだろう。効果の非常に薄い啓蒙をしようとは思わないだろうから、差別的な思想が根底にあるとしか言えない。

 

以上のように、女性を性犯罪から守るために男性への啓蒙が必要だ、という主張は男性差別だと考える。

わざわざ差別の応酬をし合うこともないと思うので、もう少し広い視野で、例えばヒューマニズムの観点から批判していけば十分なのではないかと思う。

 

4/1 追記:

これ好き

自力で書くよりも、ついったの素晴らしい能力の人の文章を参照する方が明確という事実がぼくを傷つけた。

結婚の意味

共働きで家事育児を男性も等しく分担する夫婦、という理想を語るツイートをよく見る気がする。もちろん直接的に述べるのではなく「私も働いて疲れているのに夫が家事をしてくれない」とか「夫の転勤についていかないといけなくて働き続けられない、何が一億総活躍だ」みたいな感じのをちょくちょく見る。というか、女性をもっと自由にしろっていう観点のがほとんどの気がする。

 

ここでふと疑問に思った。

 

経済面と生活面の両方を等しく分担している夫婦は、結婚する必要があるのか?

 

もちろん夫婦間の愛が、子どもの権利という面では結婚する必要があると思う。ただ、ここで頭に浮かぶのは同性間の結婚だった。上2つのどちらも男女間に限った話ではなく、愛も子どももないから結婚できないということもない。じゃあ現状の結婚は(少なくとも法的に)男女間にどんな意味をもたらしているんだろうか。

 

 

結婚することで発生する「義務」と「権利」にはどんなものがある? - シェアしたくなる法律相談所

 

この記事によれば、民法において婚姻がもたらす効果は以下のとおり。

 

  1. 同居、扶助義務
  2. 婚姻費用分担義務
  3. 日常家事債務の連帯責任
  4. 貞操義務
  5. 未成年の子の監護義務
  6. 財産分与請求権
  7. 相続権

 

個人的に気になったのはこのへん。

 

2. 婚姻費用分担義務

『分かりやすくいうと、収入の多い方の配偶者は、収入の低い方の配偶者よりも、夫婦共同生活から発生する費用を多く負担する義務を負っているということになります。』

3. 日常家事債務の連帯責任

『夫婦の一方が「日常の家事に関して」夫婦以外の第三者と法律行為をしたことによって負担した債務については、夫婦の他方が連帯して支払う義務を負うことになります。』

共同生活で必要になった債務もまた夫婦共同で負ってね、一方に押し付けることはできないよってことらしい。名義人が夫だから妻には請求できないよ、ってのもおかしいもんな。

6. 財産分与請求権

『結婚時というよりも離婚時に発生する権利ですが、離婚時において財産が少ない方の配偶者は、財産が多い方の配偶者に対して、その財産を分与するよう請求する権利があります。』

 

金銭面の話多いっすね・・・

 

子どもの監護義務は別に婚姻した夫婦に限った話ではなく、親権を持つ人の、って話だからあまり関係ないと思う。

 

想像したとおりだけど、このへんの規則って夫婦で収入に差がある場合の補正というか、どっちかに偏らないようにしてるんだね。収入に差がなかったら平等に負担しようね、っていうのは当たり前だし・・・

 

って思った時に、じゃあ共働きで収入が等しくて家事育児を平等にやる夫婦は結婚する意味ある?って思ってしまった。

 

思ったのは、もはやこのへんの問題は性差別の問題から抜けだしてきてるんじゃないかということ。妻の収入が社会的要因で(寿退職の強要、管理職になれないみたいな?)低いということが解消される流れの中では、家事育児の問題は夫婦間の問題、もっと言えば夫婦の価値観の問題に縮小されるのかもしれない。

性差別の問題でなくなってきているとすれば、私たちの価値観を徐々に変えていかなければいけないと思う。このあたりの問題を語るときに「男性が」ではなく「夫が」と限定して語らなくてはいけなくなる。ここ、意外と難しい問題だと思っていて、今の社会は女性差別には敏感だけど男性差別はほとんど語られない。語られないのは差別がないからか、人々に認識されていないからのどちらなのかはわからないけれど、もし後者であれば、今までの差別解消のために社会から要請されてきた固定観念を捨てなければいけない。これもまた差別解消と同じくらい難しいことじゃないかなと思う。

 

もちろん現状はまだまだ差が残っているけど、この流れが続く限りどこかでは差がなくなって、しかもそれは突然ではなくゆっくりとくるものだと思う。

そのゆっくりとした流れの中で、婚姻の意味をもう一度考えなおす時期が、遠からず来るんだろうなと思っている。

 

で、結婚の意味って何?

証人喚問における推定無罪の原則?

今日はこれ

 

これを最初に読んだとき、?ってなった。一見正しそうだけど、何か論理が破綻してる気がする。

というわけでちょっと考えてみた。

 

「刑事訴追の可能性のため回答は控える」→事実だと認めるのと同じ、は不適切か?

とりあえずWikipedia

疑わしきは罰せず - Wikipedia

刑事訴訟法の原則っぽい。

証人喚問 - Wikipedia

証言拒否事由について。

 

というわけで、まずはそもそもとして概念の適用箇所を若干間違えてるのが1つ(モヤっとポイント)。

書いてあることとして、国会議員が「黙秘したら有罪」は危険、っていうのがあるけど、それは後で考える。

 

次に刑事訴追を理由に証言を拒否した場合にどのような状況が想定されるか。

議院証言法第4条のうち、認められているのは証人自身が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受けるおそれのあるとき。もしかしたら部下を、とか政権をかばおうとしてるとかあるかもしれないけど、拒否事由に入ってないので不当な証言拒否になる。

つまり刑事訴追を理由とした証言拒否をした場合は以下の2パターンしかない。

  1. 刑事訴追を受ける可能性があると思っている行為を、証人がした
  2. 正当な理由のない証言拒否

2のパターンは当然に否定される。普通の人なら理由もなく罰を受けようとは思わないはず(ドMどころの話じゃねーぞ)で、証人喚問の制度(というか国家)はその前提の上に成り立っている。もちろん真実は証人にしかわからないが、少なくとも現段階で疑うのは非合理的だ。

というわけで通常は1のパターンでしかありえない。つまり、少なくとも証人は違法な行為をした認識があることになる。

したがって、立憲民主くんのツイートは何ら間違っていない(間違ってたら理由教えて)。

 

国会議員の考え方として「危険」な面はあるか?

このツイート、パッと間違ってるのがわからなかったのは、たぶん刑事訴訟との前提の違いがある。

刑事訴訟は有罪無罪、量刑の判断という被告人の直接の利害関係がある。自分で自分の不利益になるようなことは言わなくていいってのは人類が生きていく上でのコンセンサスだと思うんだけど(嘘も方便とか言うし)、その原則を明文化して、ついでに拷問とかによる自白も防ぐために黙秘権って概念がある。

一方で証人喚問には通常利害関係が生じない。国会は証人を逮捕できないし、裁判もできなければ、(少なくとも法的には)影響を及ぼせる権限をほとんど持っていない。唯一政府との利害関係をもたらすのは司法が関わってきた時で、それが考慮されてる。他にもいろいろ不利益はあるかもしれないけど、まあ国権の最高機関が正しいことを知るメリットに比べれば些細なものだよね。

 

ここからは法律に詳しくない人の勝手な考えだけど、憲法でいうところの「公共の福祉」、つまり人権と人権の衝突を調整するための原理っていう概念がある。普段の生活では人権同士の衝突はありふれているはずだ。極端なところでは「私は他人を自由に殴る権利がある」、「我々には幸福追求権があるんだから給料を2倍にしろ」といったところだろうか。もちろんそんなのが認められることはなくて、結局ほかの人の利益を不当に害する自由はないからね、ってとこ。税金はどうなの、みたいな議論もあって、当然裁判所が結論を出してる。

じゃあ証人喚問はどうなのって話。まず大前提として証人喚問は国会の国政調査権に基づく行為で、憲法にも明文化されている。ぶっちゃけた話、国民の代表が集まった国会が話を聞かせろって言ってるんだからつべこべ言わずに行けよって思うじゃん。でも当然ながら、何でも無制限に話せとは言えない。特に刑事訴追を受けるというのは人権の中でも特に重要な身体の自由を奪う可能性がある。国会の知る権利 < 個人の身体の自由。当たり前。じゃあそれ以外はと言えば、まあ人権に関わる重大な事項はないよね。人権を制限するにしても、行政が法律に基づいた処分をするか、世間に怪しまれるとか、まあ大したことない(法的に超やばいところはない)。

もし疑わしきは罰するの考え方の政権が現れたら、って話だけど、身体の自由みたいな重大な人権に対する制限は行政単独ではできない(普通に違憲)。もし行政処分とかで疑わしきは罰するの考え方で違法な判断をしたとしても、行政は終審になれないのでどっかで司法の判断が入る。

行政の合法な行動であっても危険と言い得るかどうかは、ぶっちゃけ人や事案によって違う部分だと思う。

個人的な考えとしては、問われていることに答えない人間は、普通怪しまれるよねってとこ。刑事裁判においてさえ、裁判官の印象を悪くして量刑が重くなることだってある。民事裁判に至っては被告が出廷しなかったら原告の主張が全面的に認められる。

疑わしきは罰するは人間の一般的な感覚ですらあるんじゃないかと思える。合法である限り、政権のその考え方、行動を危険だと言い張るのはなかなか厳しいんじゃないか。

 

 

というわけで自分の考えは、立憲民主くんのツイートは何ら危険ではないってことです。というか司法の介入を待つ立法府とか普通に嫌なので、サッサと第三者委員会で真相解明を進めてくれ。

「理不尽」に耐える訓練としての部活?

今日のにゃーん。

 

“部活”は尊い。なぜならば:日経ビジネスオンライン

 

要するに部活は社会の理不尽さに耐える訓練として必要なのだ、という話。

 

まあ確かにそういう面もあるが、理不尽さを与える理屈として用いるには弱い。社会ではどうしても理不尽さは残ってしまうからそのトレーニングとして重要だと言いたいのだと思う。だが、理不尽はなくすべきだし、そのトレーニングの結果として理不尽が許容範囲に収まってしまうとすればよくない。

 

なぜ理不尽は無くすべきなのかといえば簡単で、理不尽だからだ。例えばこの筆者だって、道で知らない人に殴られても我慢できるわけではないだろう。

強盗、暴行、汚職など極端な理不尽は犯罪として分類される。昔であれば特に汚職などはよくある話であっただろう。そしてその時代の人は汚職の理不尽さにうまく対応していただろう。だからといって今許されるわけではない。

 

おそらくこの筆者が思っているのは、どんな時代にあってもある程度の理不尽さは残るから、トレーニングが必要だと言っているんだろう。しかし、それは間違っている。その時代にはその時代の理不尽さがあって、徐々に変化していく。そして許容されない範囲は不可逆的に広がっていく。

その許容されない範囲にたった今入ったのが極端に厳しい部活だというだけの話だ。そしてその流れに反対するのなら、時代の流れに逆行している自覚を持つべきだ。

 

記事中で理屈ではなく感情の話だ、世の中には感情で動く人がたくさんいる、という例もあった。確かにそうで、今後も理不尽さは続くだろう。しかし感情に基づく行動を理屈で肯定することは不可能だ。

また、訓練に実践は必ずしも必要でない。溺れたときの訓練として実際に溺れさせることが必要であろうか。

 

もし部活を現在でも残る理不尽さの訓練として使うのであれば、訓練として再構築することが必要だ。耐えるべき理不尽とそうでない理不尽を区別するべきだろう。

 

いずれにせよ、この記事は理屈で語る部分が一切なく、ただ共感を呼ぶだけの記事だ。いや、それが目的だったんだろうな。釣りにまんまと釣られたわ。

他人叩きと自尊心

今日のつらみ。

 

正論だと思う。正論だけど、そこまで他人に配慮を強制されなくてはいけないんだろうか。

 

このツイートで挙げられている“呪い”は全て成功者への妬みであって、表に出すのは良くないという主張だと思う。

この主張の根本にあるのは機会均等な下での競争によって生まれる差、つまり資産や社会的地位など、を本人の努力によるものとして認め、褒め称えようという態度だろう。

現代の競争原理をベースとする社会では、効率的な成長のためにその態度は必要だろう。成功者、あるいは持つ者の足を引っ張るような行動は控えるべきである。

 

しかしながら、そこまでして社会のルール維持に貢献しなくてはいけないのだろうか。いやむしろ持つ者を褒め称える態度は、持たざる者にとって自身の不利益にしかならないのではないか。

 

持つ者は社会的な勝者であるから、相応の力を持っているだろう。一方持たざる者は大した力を持っているわけではない。それが集団になれば対抗できる力を持つだろうが、集団を維持できるモチベーションや価値観、賢明な指導者という条件が揃うことなど、現代の社会では多くはないだろう。

つまり、持つ者にとって持たざる者はほとんどの場合に脅威ではない。完全に脅威がないわけではないから、持つ者は持たざる者を完全に抑えつけようとするかもしれない。

 

持つ者への妬みを表すこと自体が脅威ではないのだ。言ってしまえば持たざる者が自尊心を維持するための理屈に過ぎない。大した脅威ではない。

 

もちろん全員が“呪い”にかかっていたならば、競争原理の基礎が揺らぎ、社会が混乱する可能性がある。しかし、この“呪い”は競争で負けたからに過ぎない。競争の前から妬みを持つなどあり得ない。自分の方が弱いとわかっている競争に参加する人はいないからだ。全員が“呪い”にかかるというのはあり得ない。

 

結果として、“呪い”は競争に負けた持たざる者の妬みに過ぎず、社会的な脅威でもなく、ただその人の自尊心を支える理屈であるのみである。社会の原則という大義名分の元に自尊心を崩そうとするのが正しいとは決して思わない。

 

現実的には、持つ者が持たざる者の集団によって足を引っ張られる事案もあるだろう。そしてそれは目立つ。

ただしそれ以上に持つ者の力によって虐げられている持たざる者は多くいるだろう。持つ者には力があるからだ。もちろんそれは目立たない。

 

力関係が明確な状況において徹底的な公平を求めることは必ずしも正しいことではない。徹底的な公平が社会の効率を大きく向上させる場面もあるかもしれないが、社会の原理原則、あるいは正論をその主張を支える根拠に置くのは論として脆弱ではないだろうか。労働法制などがその原理原則に則るべきでない良い例である。

 

まとめると、その“呪い”は大きな悪影響を社会に及ぼすものではない。それは自尊心を得られるだけのものであり、それですら正論によって崩そうというのは倫理に明らかに反する。

そこまで徹底して、持つ者を褒め称え、持たざる者が我慢する道理などない。“呪い”を解こうとすることは正しさの名の下での暴力でしかないのではないだろうか。

「夫叩き」の正義

 

 

本日のツイッターランド。

 

僕が言おうとしてないこと

最初にここをはっきりさせておかなければいけない。

夫の愚痴を言うこと

言うなとは言わん。ていうか言わないとつらくなるだけだし、所詮生き物はすべて皆自己中なので、自分のことを棚に上げて他人の文句を言っちゃうのは†カルマ†だと思う。自由に言ってください。

シャンプーを入れ替えてくれたことに感謝したほうがよいこと

承認欲求は誰しもあるので、どうでもいいことを褒めてほしい。僕も褒めてほしい。僕、こんなにごはんたくさん食べて(横に)大きくなってるよ。えらいでしょ。

 

僕が言いたいこと

愚痴は愚痴でしかない

愚痴は言っていい。いくらでも言っていい。でも愚痴を他人への要求の理由に使ってはいけない。

元のツイートの人がどう思ってるかは知らんけど、もし夫に要求するつもりで言っているとしたら、気づくことが当たり前であると暗に主張しているのだとしたら、それは愚痴ではない。

要求には対価がなくてはいけない

愚痴でなくて、夫への主張、要求をするのであれば、一貫性がなければいけない。これは当たり前の話で、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」は(一般的に)認められないし、要求を一方的にして何らかの対価を与えもしなければ、それはただの奴隷でしかない。

奴隷でないとすれば、それは何らかの対価があるということだから、「私はあなたにこうこうすることを要求する、代わりに私はこれこれをしてあげる」である必要があるだろう。もちろん家族であれば無償の奉仕という場面もあるだろうが、例えば暴力で屈服させ奉仕させることはいくら家族でも許されないだろうから、程度問題に過ぎない。

役割を強制することはすべきでない

要求には対価が必要、というのには抜け道があると思っている。何かと言えば、宗教の教義であるとか、道徳とか、常識とかである。これの使い方はこうだ: 「妻がシャンプーを詰め替えてくれたことに気づかないのは不道徳であ(り人間として劣ってい)る」。

もちろんこれが成り立つ例はたくさんある。人を殺さなかったからといって褒めてもらえるわけではないが、人を殺してはいけない。電車の中では通話をすべきではないが、電車以外なら通話料が安くなるわけではない。

しかしながら、夫婦間の関係にこれを導入することはできない。というか、夫叩きの根源にある気持ちは解消されることはなく、むしろ同じような感情を増やすことになるだろう。なぜならば、これを導入した場合夫はこう言うことができる: 「シャンプーを津詰め替えるのは妻として当然であり、それをしないのは不道徳であ(り人間として劣ってい)る」。これは明らかにジェンダーを根拠とする道徳であり、夫に一方的に欲求したい欲求とは真逆の結果を産むものだろう。

 

では僕はどうしてほしいのか

1つは「これは愚痴である」と明言することである。愚痴であれば何を言っても自由であるから、何を言ってもいいし、誰も何もしなくてよい。

もし愚痴ではなくて主張であるならば、日々夫が何をしてくれているかに気を配り、常に感謝していかなければいけない。これに例外はなく、あらゆることに気付いて感謝しなければいけない。なぜならば夫の「たまたま気づかなかっただけ」という言い訳を防ぐためである。あるいは、ジェンダーを論拠としない道徳として世の中に広めてもよい。

もしそんなことができないと思うのであれば、夫に何を言われても言い返せないだろう。もしそれでも感情的に言い返すのだとしたら、それも人生である。人間は自己中であるから、仕方がない。

しかし、もはやその段階では何をされても、本当に何をされても文句を言えないだろう。自分が自己中であるためには対価が必要であるから、相手も自己中であることを認める必要がある。自己中であるから、相手の都合など知ったことではなく、自分の優位な点をあらゆる面で利用し追いつめてくるだろう。(そういうの嫌いじゃないけど。終末もので生きるために殺しあう話とかおもしろいし…)

っていう話をしたんだけど、ぶっちゃけこれどんな話にも当てはまる。人間が正義を主張する時は何らかの反対勢力に対峙しているときで、正義のためには罪の意識を感じずに異教徒を殺したいとか、自分を抑圧する社会に対抗したい時とかである。つまり、正義は常に自分が不利な時に用いるものだ。自分が有利なら正義など持ち出さなくとも勝てるからだ。

この話の中で現実的な解決策は2つしか出ていない。愚痴として自分のわがままであると自分で認めるか、あるいは「道徳」であるとして叩くことだ。しかし後者は前に述べた通り、間違った論拠を用いて行うと恐ろしく威力のあるブーメランが飛んでくる。ここで使うべきは正義だ。ブーメランが飛んでこないよう、正義でぶちのめすしかない。せめて正義を貫き通してくれ。正義のヒーローみたいに、真の正義とは何か悩み続けてくれ。