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今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

登山という「危険な行為」と自己責任

今日Twitterを見ているとこんな記事が流れてきた。

www.yomiuri.co.jp

事故については不幸なことであったし、危険を冒して救助に挑まれた隊員の方々の苦労と勇気に敬意を表したいと思う。

 

気になったのは、同時に流れてきたある人の意見である。いわく、

「これで次から救助されなくなったよ、登山家さん残念だね」

「わざわざ危険な行為をして死にかけた人を、危険を冒してまで助けに行ったのに訴訟なんてしたらこうなるに決まっている」

というものである。

 

確かに危険を冒して救助するというのは大変なことであるし、結果として登山者が亡くなったことに対し賠償を求めるというのは恩に仇を返すような行動に見えることも理解できる。

 

しかしながら、別の記事を見てみると

mainichi.jp

『報告書で、つり上げ用具がすり抜けた要因として「男性が負傷の痛みで姿勢を変えようとした」など三つを挙げたが特定しなかった。遺族は示談で市に賠償を求めたが、市は過失を否定したという。』

とある。

気がかりなのは『登山という「危険な行為」の結果なのだから何があっても仕方ない』という見方である。

 

登山する前提として、万が一不幸なことがあっても仕方ない、山には危険が多いのだからという登山者の心構えは必要である。実際そのような認識で登山を趣味としている人は多いと思う。

しかしながら、その認識を登山をしない人たちから押し付けるのは間違っているように思えてならない。「危険な行為をしている人は自己責任でやっているのだから、つべこべ言う権利はない」「危険な行為の結果に他人を巻き込むな」という考えである。「もし救助隊に過失があっても、助けてくれた相手に対して争うべきではない」という考えである。

危険な行為をした人の命や権利は尊重する必要がないという考え方に恐ろしさを感じるのである。

 

結果としては訴訟は他の登山者にとって不利益を生んだわけで、正しい行動であったかは私自身疑問に感じているのだが、登山者が死亡した直接の原因は救助中に起こった事故であり過失の有無を争うことは一種の権利であると思う。

危険な行為というのはその権利すら相殺すると考えられているのだろうか。この考え方は大きな問題を含んでいるように感じる。

 

この考え方に対して、少し検討したいのは「登山はなぜ危険なのか」という点である。

山岳遭難発生状況(平成26年中)/長野県警察

この資料によると、遭難原因の上位4つは「転・滑落(36.8%)」「転倒(22.1%)」「疲労凍死傷(12.5%)」「道迷い(11.4%)」である。次に「病気」「落石」が続く。

転落・滑落・転倒は登山中に足元の不注意によって起こるものである。疲労・道迷いに関していえば登山者の体力不足・準備不足が主な原因として挙げられる。

この資料をもとに言えるのは「登山者の認識の甘さにによる遭難は全体の24%ほどに過ぎない」ということである。もちろん転落など足元を常に注視していれば防げる事故ではあるが、多くの登山者がいれば足元の不注意による事故はそれなりの回数が起こり得ることではないだろうか。

また冬山に関して言えば、そもそも計画する段階で相応の装備・準備が必要であるし、難度もぐっと上がる。したがって準備不足により起こるような事故はさらに少ないだろう*1

 

これらを踏まえて言えば、山岳遭難で起こりうる事故の半数以上はやむを得ない事故であり、予測が難しい事象である。自己責任と言い切るには、また「危険な行為」と言い切るにはいささか小さすぎる過失ではないだろうか。

 

繰り返すが、登山者は自己責任の原則を持って登山をし、万が一の事態でも他人に頼り、また他人に責任を押し付けるなどの行為はすべきではないと思うし、それを受け入れられる人のみが登山を楽しむべきであると思う。

しかしながら一方で自己責任の原則を登山者に押し付け、助かるはずの命を見捨てても構わないという考え方は間違っているのではないだろうか。また「危険な行為」をしたことをあらゆる権利を放棄したかのように見ることは、決していい結果を生まないと感じる。そしてこのような考え方が、もっと大きな、より多くの人が不利益を被るような「自己責任論」に発展してしまうことは起こってほしくない。

 

*1:ただし、これに関しては資料を見つけることができなかった