今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

他人叩きと自尊心

今日のつらみ。

 

正論だと思う。正論だけど、そこまで他人に配慮を強制されなくてはいけないんだろうか。

 

このツイートで挙げられている“呪い”は全て成功者への妬みであって、表に出すのは良くないという主張だと思う。

この主張の根本にあるのは機会均等な下での競争によって生まれる差、つまり資産や社会的地位など、を本人の努力によるものとして認め、褒め称えようという態度だろう。

現代の競争原理をベースとする社会では、効率的な成長のためにその態度は必要だろう。成功者、あるいは持つ者の足を引っ張るような行動は控えるべきである。

 

しかしながら、そこまでして社会のルール維持に貢献しなくてはいけないのだろうか。いやむしろ持つ者を褒め称える態度は、持たざる者にとって自身の不利益にしかならないのではないか。

 

持つ者は社会的な勝者であるから、相応の力を持っているだろう。一方持たざる者は大した力を持っているわけではない。それが集団になれば対抗できる力を持つだろうが、集団を維持できるモチベーションや価値観、賢明な指導者という条件が揃うことなど、現代の社会では多くはないだろう。

つまり、持つ者にとって持たざる者はほとんどの場合に脅威ではない。完全に脅威がないわけではないから、持つ者は持たざる者を完全に抑えつけようとするかもしれない。

 

持つ者への妬みを表すこと自体が脅威ではないのだ。言ってしまえば持たざる者が自尊心を維持するための理屈に過ぎない。大した脅威ではない。

 

もちろん全員が“呪い”にかかっていたならば、競争原理の基礎が揺らぎ、社会が混乱する可能性がある。しかし、この“呪い”は競争で負けたからに過ぎない。競争の前から妬みを持つなどあり得ない。自分の方が弱いとわかっている競争に参加する人はいないからだ。全員が“呪い”にかかるというのはあり得ない。

 

結果として、“呪い”は競争に負けた持たざる者の妬みに過ぎず、社会的な脅威でもなく、ただその人の自尊心を支える理屈であるのみである。社会の原則という大義名分の元に自尊心を崩そうとするのが正しいとは決して思わない。

 

現実的には、持つ者が持たざる者の集団によって足を引っ張られる事案もあるだろう。そしてそれは目立つ。

ただしそれ以上に持つ者の力によって虐げられている持たざる者は多くいるだろう。持つ者には力があるからだ。もちろんそれは目立たない。

 

力関係が明確な状況において徹底的な公平を求めることは必ずしも正しいことではない。徹底的な公平が社会の効率を大きく向上させる場面もあるかもしれないが、社会の原理原則、あるいは正論をその主張を支える根拠に置くのは論として脆弱ではないだろうか。労働法制などがその原理原則に則るべきでない良い例である。

 

まとめると、その“呪い”は大きな悪影響を社会に及ぼすものではない。それは自尊心を得られるだけのものであり、それですら正論によって崩そうというのは倫理に明らかに反する。

そこまで徹底して、持つ者を褒め称え、持たざる者が我慢する道理などない。“呪い”を解こうとすることは正しさの名の下での暴力でしかないのではないだろうか。