今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

「理不尽」に耐える訓練としての部活?

今日のにゃーん。

 

“部活”は尊い。なぜならば:日経ビジネスオンライン

 

要するに部活は社会の理不尽さに耐える訓練として必要なのだ、という話。

 

まあ確かにそういう面もあるが、理不尽さを与える理屈として用いるには弱い。社会ではどうしても理不尽さは残ってしまうからそのトレーニングとして重要だと言いたいのだと思う。だが、理不尽はなくすべきだし、そのトレーニングの結果として理不尽が許容範囲に収まってしまうとすればよくない。

 

なぜ理不尽は無くすべきなのかといえば簡単で、理不尽だからだ。例えばこの筆者だって、道で知らない人に殴られても我慢できるわけではないだろう。

強盗、暴行、汚職など極端な理不尽は犯罪として分類される。昔であれば特に汚職などはよくある話であっただろう。そしてその時代の人は汚職の理不尽さにうまく対応していただろう。だからといって今許されるわけではない。

 

おそらくこの筆者が思っているのは、どんな時代にあってもある程度の理不尽さは残るから、トレーニングが必要だと言っているんだろう。しかし、それは間違っている。その時代にはその時代の理不尽さがあって、徐々に変化していく。そして許容されない範囲は不可逆的に広がっていく。

その許容されない範囲にたった今入ったのが極端に厳しい部活だというだけの話だ。そしてその流れに反対するのなら、時代の流れに逆行している自覚を持つべきだ。

 

記事中で理屈ではなく感情の話だ、世の中には感情で動く人がたくさんいる、という例もあった。確かにそうで、今後も理不尽さは続くだろう。しかし感情に基づく行動を理屈で肯定することは不可能だ。

また、訓練に実践は必ずしも必要でない。溺れたときの訓練として実際に溺れさせることが必要であろうか。

 

もし部活を現在でも残る理不尽さの訓練として使うのであれば、訓練として再構築することが必要だ。耐えるべき理不尽とそうでない理不尽を区別するべきだろう。

 

いずれにせよ、この記事は理屈で語る部分が一切なく、ただ共感を呼ぶだけの記事だ。いや、それが目的だったんだろうな。釣りにまんまと釣られたわ。