今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

上野千鶴子「女ぎらい」感想

インターネッツフェミニズム論争だけ読むのに飽きてきたので、大御所の本を読んでみる。

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全体を通して

2010年に出版された本にしては考察の手法や根拠が古い気がして、解釈の方向性を誤っているのでは?というところが多々ある。というより、この解釈を日本に広めたのが上野さんだったような気がする(ちゃんと知らない)。

この本では、男は女を所有することで男としての価値を得、女は男に所有されることで女としての価値を得るのだ、それには男女問わずに女性を蔑む価値観(ミソジニー)が不可欠で、それは現在も変わっていない、という解釈(以下旧来の解釈という)を軸にして話を進めている。したがって、同性愛者や小児愛者について述べつつも、上記の解釈を軸としているが故に近年の方向性とは違う結論に至っている。

まさに現在進行形で起きている事項を解釈するには向いていない気がするので、今のツイッターフェミニズム、および反フェミニズムの直接の助けにはならなそうな気もする。SNSとか時代の最先端(というか先鋭の方が近い?)いってるし。

 

前半部分について

この本の前半部分(1-10章ぐらい)は、一部(「非モテ」と「小児性愛」について)を除き、フェミニズムミソジニーについて従来通りの解釈を説明していく。主には上で述べた男と女としての価値がどう決まるか、聖女と娼婦の区別*1、歴史的にミソジニーはどう誕生し変化したのか、などが述べられている。

 

上で除いた部分は具体的事例を旧来の解釈によって説明している章だ。僕がこの本を古めかしいと感じるのは、このへんの解釈がどうもズレているように感じるからだろう。

特に4章の「『非モテ』のミソジニー」は男性性的弱者論や秋葉原通り魔事件、恋愛の自由市場化といったテーマと、5章「児童性虐待者のミソジニー」で小児性愛とアニメ・マンガ規制というネット上で論争が激しい分野を、サラリとつまみ食いしながら通り過ぎている。

例えば男性性的弱者論の意図するところは、恋愛自由市場において上位男性が多くの女性を占有しており、中程度の位置にいる男性ですら女性にたどり着けないという問題が根本であるはずだが(もちろん「女を当てがえ論」など派生したより過激なものもあるが)、この本では女性の性的弱者を無視した男性本位の考えである、としている*2。さらにはそれは男性の社会的スキルの不足によるもので、女性が批判される筋合いはないと言う。

これらを読む限り、男性性的弱者論における論点、例えば運や環境に左右される競争は公平なのかといった問題をことごとく無視しているように思える。

かといって論の組み立てに矛盾が生じているわけではないので、旧来の解釈を適用する上での限界という見方の方が近いと思う。男性がすべての価値を決められるのだ、という旧来の解釈を用いる限り男性性弱者論が成り立たないのは当然の話で仕方ないのかなって感じ。

 

後半部分について

後半は旧来の解釈による事件や社会問題の解説という感じなので、正直ちゃんと読んでない。

おもしろかったのは「女子校文化とミソジニー」と「ミソジニーは超えられるか」って章か。

 

前者では女子校という異性の目がない環境をどう生きているかに着目し、共学との差異を論じることで女は男によってどのような影響を受けるかを論じている。

ここではその差異を元に、女の価値が男によって決められていることがわかる、と結論づけている。ただ、著者は共学校文化は男子校文化と「それに付随した」異性文化から成ると主張し、その2つと女子校の文化の比較としている。

そりゃ20世紀だったらそれでいいかもしれんが、少なくとも2006年で(この章で出ている参考文献は2006年のもの)男子校と共学をまとめるのはおかしい(と経験者は語る)。現在の主流は明らかに共学校文化であり、男子校文化は全く別のものであると解釈すべきだ。章の主題は共学校文化と女子校文化の比較であるからあまり影響はないのだが、共学校文化の中に男子校文化を見出そうとする(≒共学校文化は男子校文化、つまり男性のみの集団の価値観によるものである)という解釈をするのは明らかにミスリードである。男子校文化について明確に論じている部分はないが、もしこの価値観を持って前述の「非モテ」を語っているとすれば、大きく見誤っている可能性が大きい。

後者については、女性学に対する男性学について述べ、男性が男性固有の苦しみから抜け出すにはどうすべきかについて軽く述べている。(個人的に)残念ながら、ここでも男性の苦しみは女性を所有できない苦しみであると(しかも無根拠に)し、ミソジニーに由来する苦しみであると結論づけている。したがって解決策もミソジニーから抜け出すことに主眼を置く。

 

まとめ

全体的にネット論争で行われているよりも若干古い価値観を用いて説明しているので、なかなか納得できない部分がある。

一つ大きな勉強になったのは、インターネッツフェミニストは適当なことを言っているわけではなかったということだ。彼女ら(少数だが彼らもいる)が主張する事柄はこの本に述べられた旧来の解釈から容易に導き出される。したがって(論拠の適不適を別にすれば)適切な主張である。

しかしながら上で述べたように、旧来の解釈は、現在ネットで論じられている事柄全てを適切に説明できるわけではないだろう。適宜修正していくことが重要であるのかと思う。

 

個人的には、現代にもミソジニー的な価値観が全面的に残っているのだという主張はさまざまな面から否定、あるいは拒否されるべきなのではないかと考えている。

1つは上で述べたように旧来の解釈で説明しきれないテーマが多く出現している。すなわちミソジニーが既に消え去った、あるいは影響していない領域が存在しているのではないかということだ。

次にこの旧来の解釈は確かに一時期の社会を良く説明していると思うが、それは本当に根本的な要因であったのか疑問がある。今僕が気になっているのは、女性蔑視も人権軽視の一面でしかなかったのではないかという考えだ。女性が性役割を押し付けられていたのは確かであっただろうが、同様に男性も役割を押し付けられていたのではなかろうか、という観点が最近ネット論者から出されている。代表的な面が男性の高い自殺率、危険な労働への従事、さらには兵役といった面で現れているという見方である。であるとすれば、ミソジニーの解消は人権の尊重によってなされることになり、より望ましい対処法になる。

最後に、ミソジニーが全面的に残っていることが事実であるとしても、もはや我々はその事実を語るべきではないのではないかという思いだ。これらの考えは全ての責任を男性に押し付けることで成り立つ。差別解消運動以前は男性が女性より圧倒的優位に立っていたとすれば、多少の慈悲を与える=自分が悪者になっても気がすむならいいか、となるが、今はもはやそのような気の持ちようができる時代ではない。そのような時代においてあえて対立構造を強調する必要はなく、もっと融和な解釈をすることも可能であり、より望ましいと思う。融和のために過激な解釈をあえて取り下げることもあって良いのではないか、これが否定ではなく拒否としての選択ができないか、という考えである。

*1:最近でもこんな感じの記事あったけど、これ割と前から言われてるんじゃないの?

「男性作家が描く女性像は3パターンしかない」と書かれた記事が物議。大喜利を始める者も。 - Togetter

*2:ここだけはいわゆる「クソリプ」に近いと思う。問題にしている領域の外から、じゃあこれはどうなんだ、と持ち出してくるのは筋がよくない。