今日のいも

あっちはひとりごと、そっちは建前、こっちは考察

叱られる不公平感のいろんな形

子ども時代の「不公平感」

叱られる時の不公平感、というものは非常に扱いが難しいと思う。

子どものとき、友だちグループで悪いとこをして自分だけ怒られて「なんで自分だけ」となったこと、あるいは近い経験はあるんじゃないか。そして「なんで自分だけ」と反論したとき、周囲の大人はなぜ自分だけを怒るのか教えてくれなかったんじゃないかと思う。

あるいはクラスメイトにちょっかいを出されて喧嘩になったが、先生はお互いさまと双方に謝罪をさせ解決したかのように振る舞う様子を、1度は見たことがあると思う。

もちろん大人になれば、悪いことをして「なんで自分だけ」と思うことはあっても口に出すことはできないだろう。悪いことをしたのが事実なら、他の人がどうであろうと謝罪しなくてはいけない、というのはどこかで学ぶことだ。

 

「叱られ」の不公平

「叱られる」ことに関する不公平は通常問題にならない。

あなたの友だちとの喧嘩は、大体が言い合いで始まり、エスカレートして取っ組み合いに終着したはずだ。

現代の社会では、事態を悪化させることは過失とされ、批判の対象となる。理由は簡単に、そうでないと社会が成り立たないから、であり、それ以外にあるとは思えない。

知らない人がどんなに汚い言葉であなたを罵っても、あなたが殴らなければ相手は怪我をしないのだ。そしてどんなにあなたが精神的に傷つこうと殴って怪我をさせたら警察に連れていかれるだろう。もちろん状況により適切な配慮はなされるだろうが、「あなたは全く悪くない」と言う人はおらず、「気持ちはわかる“けど”」「どうにか我慢できなかったの?」とほとんどの人に言われるだろう。

結局社会を維持する上で最も重要なのは他人に損害を与えないことであり、損害を与えたものは相応の批判をされる、という社会に都合がいいルールが存在するに過ぎない。そしてどんな事情があろうとも、社会に都合の悪い行動は原則悪とされ、そこからの酌量による減点法で結果が決まるのだ。どうあがいても初めから加点を0にすることはできない。

そしていくら不公平さを語っても、「いやでも殴っちゃったしねぇ」と誰もが言うだろう。側から見ればどんな理由があろうとも、社会のルールに刃向かったクソ野郎であるから、話を聞く人はいない。したがってその不公平さは是正されず、殴ったという事実のみをもって叱られ続けるのだ。

問題は、その叱られるきっかけになった行為は果たして全員の身に一斉に降りかかるのかという点だ。汚い言葉を通りかかる皆に浴びせ、その中の1人が突然殴りかかったのであれば、我慢が足りないということになるだろう。そして、残念ながらほとんどの場合、おそらくそうではない。汚い言葉を浴びせられるのは1人で、他の人にはそんな経験をしない。であるとすれば、ランダムに降りかかった事象に対して怒った結果、社会から叱られるのだ。こんな理不尽はない。

こんな理不尽を、社会のルールとして内包していることは覚えておかなくてはいけない。

 

大人の「不公平感」

ところが、子どもの頃に学んだはずの悪に対する態度、すなわち「理由はどうあれ悪いことは悪く、罰を受ける」というルールに真っ向から対立するルールが社会に存在する。「公平さ」だ。

これはもう最悪である。複雑怪奇、魑魅魍魎、右往左往。しかも公平さと不公平さのバランスを取るのが大人であるというのだから、大人になれない者が世の中に溢れていても全く驚かない。

こんな意味不明な概念を、なぜか皆心得ているかのように振る舞う。学校の先生は喧嘩した子どもをまとめて叱り、裁判官は他人を殴った被告人をさも思いやりがあるかのように叱るのである。「公平に」社会への反逆者を「不公平に」降りかかった悪いことをしたという事実をもって叱るのである。そして意味不明な概念を意味不明な用途に使うので、世の中は「「「素晴らしいこと」」」で溢れる。

そしてそれは、何をしたら叱られるか、あるいは何をした時に叱るのかの判断に大いなる影響を及ぼす。自分が叱られたことがあることについては適切に叱れるが、経験のない「悪いこと」には自分が思う「公平さ」に基づいて叱るのである。そんな「公平さ」には何の裏付けもないから、ただの私刑にしかなり得ないのだ。たちが悪いのは、「公平」であるべきなのに、叱ることに関しては「不公平」であってよいという矛盾があることだ。つまり、叱られる方が常に悪いのだ。実に「「「素晴らしい」」」ことである。

このような矛盾は、残念ながら世の中で形を変えて我々の前に現れる。1つは叱られる方が悪いという価値観に基づくもの、もう1つはこの矛盾への反感に基づくものだ。

では、とは具体的にどのようなものか、考えていきたい。

 

大人の「不公平感」による矛盾

最初に1番わかりやすい形で現れるのは、交通違反の取り締まりだろうか。叱られる方が悪いという価値観を大いに利用し、違反しやすい場所の改善を図るでもなく、ただ金を稼ぐことができる。別に世の中は良くならない。Coinhiveの件も好きじゃないなぁ。

あるいは、刑罰に関する議論か。よく見るのは「殺人を犯したやつは全員死刑にしろ」「心神喪失者が刑を免除されるのはおかしい」とかか。叱られる方が悪いのであって、事情は考える必要がないということなのだろう。実に「公平」ではあるが、もちろん世の中は良くならない。てか自動車の死傷事故どうすんねん。

叱られる方が悪いという価値観は、我々を不自由にする。人間は進歩するから、叱られるべき行動はどんどん増える。叱られることは悪いことだ。悪い人にはみんななりたくないから、どんどん何もしなくなっていく。また、どちらも叱られるべきだが、どちらをより優先して叱るかという場面で、より叱りやすい方を選ぶようになる。世の中を悪い方向に導いてしまうのが矛盾の行き着く先である。

 

逆に「叱られる方が悪い」への反感で言えば、たくさんある。「自民党を批判する人はこれこれこういうが、じゃあ民主党政権下ではどうだったんだ」「は◯ちゅうはMetooMetoo言うが、お前も童貞バカにしてたじゃないか」などか。あと最近これ見た。

「いやいや、どっちもやっちゃいかんでしょ」という言説は、残念ながら支持を得られない。さらに多くの場合、片方は今まで黙認されていて、新しい方だけが槍玉にあげられる。こうなればただの不平不満ではなくなり、平等と不平等の、正義と正義の戦いになる。そして無限に結論が出ることはなく、その間にハイエナが利益をかっさらっていく。

叱られる方が悪いという価値観への反感は、議論の堂々巡りを招く。しかし、どちらも叱られるべきだが、どちらをより優先して叱るかという場面でもまた問題が起きる。お互いの悪いところを挙げあうので、誰を優先して叱るかが判断しづらくなる。全員を公平に叱らなくてはいけなくなる。世の中は良くなるが、非効率的かもしれない。

 

我々はどうするべきか

簡単である。公平か不公平かではなく、世の中が良くなるかならないかで行動を決めよう。

 

追記

これやん

https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2581%259D%25E3%2581%25A3%25E3%2581%25A1%25E3%2581%2593%25E3%2581%259D%25E3%2581%25A9%25E3%2581%2586%25E3%2581%25AA%25E3%2582%2593%25E3%2581%25A0%25E4%25B8%25BB%25E7%25BE%25A9